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上越立ち止まりスポット20-①平和記念公園(直江津捕虜収容所跡地)


私が子供の頃、近所に捕虜収容所長の方が住んでおられた。今となってはどんな方だったか名前も顔も覚えていない。しかし、父母の会話から捕虜収容所長だったということだけは記憶にある。重い話題だったこともうっすらと覚えている。直江津捕虜収容所事件の全貌を知ったのは成人してからだった。

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上越市川原町に現在は平和記念公園となっている直江津捕虜収容所があった。今は整地されているが、友人の家が近くに何軒かあったので昔からその倉庫のような建物があったことも覚えている。

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上越市ホームページにはこのように紹介されている
平和記念公園は戦後50年の節目である平成7年10月に直江津捕虜収容所跡地に整備され、平成12年4月には平和記念公園展示館が開設されました。館内は1階~2階にかけて、直江津捕虜収容所に関する資料や平和記念公園展示館整備までの交流のあしあと、また開設に携わった上越日豪協会の活動に関する資料などが展示されています。

直江津捕虜収容所事件の概要は以下のよう説明している。
日本軍は、太平洋戦争開始後、アジア各地の兵士を日本国内91か所の捕虜収容所に収容し、工場や炭鉱などで働かせました。直江津では、古い塩の倉庫を改造した捕虜収容所に300人のオーストラリア兵を収容しました。その冬、強い寒波や飢えで、60人が病死しました。その後さらに、イギリス、アメリカ、オランダなどの捕虜を加え、収容された捕虜は700人にものぼりました。 終戦後、当時の収容所職員15人が裁判でその責任を問われ、そのうちの8人が悲痛な遺書を残して刑死しました。このように上越市にも、戦争がもたらしたむごく、悲しい歴史があったのです。

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オーストラリア兵たちの記念碑。向かい合うように絞首刑になった8人の収容所職員の碑。同じデザイン。

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この8人については、さまざまな記録が残されている。戦後数年たった時、平和になったということで結婚し子供が生まれたばかりの若い職員たちが、突然戦争犯罪者として告発されたのだ。戦時中の虐待ということが罪状であったが当人たちにはそのようなことをした自覚がなかった。だから、なぜ?という思いがあった。遺書が残されているが、悲痛なものばかりだ。確かに60人が亡くなっているが、飢えていたのは捕虜だけでなく市民も同様であった。所員たちはなんとか滋養のあるものということでゴボウを与えたのが「木の根を食べさせられた」とか「牛の尻尾」を食べさせられたという記録になってしまった。また、寒さも昭和19年から20年にかけての寒波を倉庫で過ごさなければならなかったのは下級所員たちの直接の責任ではない。だから、罪状に納得できないまま絞首刑を言い渡されたのだ。「私は貝になりたい」というBC級戦犯を扱ったTVドラマのオマージュのような形で、上坂冬子さんが「貝になった男」としてこの顛末を書いている。おそらく、なんらかの形でだれかが責任をとらねばならなかったという政治的な意味があったのだろう・・・

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刑死後、元捕虜の方からも親切にされたという証言があり、交流がはじまった。ホームページにもつぎのように書かれている。昭和53年、オーストラリアの元捕虜から届いた一通の手紙がきっかけで交流が始まり、終戦から50年経過した平成7年に、世界平和と友好を願う場所にしようと、市と市民が協力して「平和記念公園」が完成しました。

数年まえに、アンジェリーナ・ジョリーがこの直江津捕虜収容所に収監されたアメリカの捕虜の話を映画にした。主人公は実在の方で、元オリンピック選手でB29のパイロットだった。不屈の精神で生き抜いたというストーリである。この中で描かれた捕虜収容所長は、人肉を食べる鬼のように描かれていて日本での本格的な公開はされなかった。

平和記念公園では、今年も8月10日にセレモニーが行われた。

この直江津捕虜収容所事件を題材にした作品(本や映画)

貝になった男―直江津捕虜収容所事件
上坂 冬子
文春文庫 1989

映画『アンブロークン』
アンジェリーナ・ジョリー監督
2014年