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杉田庄一物語 第三部「ミッドウェイ海戦」 その21 ミッドウェイ海戦

 五月十七日、三百名以上の設営隊員や杉田を含む六空の若手搭乗員二十名を乗せた輸送船慶洋丸ほか二隻の輸送船が、駆逐艦二隻に護衛されて出航し、サイパンに向かった。六空はミッドウェイに向かう先発隊と本隊、アリューシャン列島に向かう別動隊で編成を行っていた。
 本隊はミッドウェイ占領後に基地航空部隊になる予定である。ベテランたちは即戦力として各空母に便乗して向かうが、経験の浅い搭乗員たち(杉田を含む)は整備員と共に輸送船で現地に向かい、そこで訓練を仕上げる予定になっていた。

 数日後、六空隊員たちはサイパンに上陸する。鈍色の空が冬中続く雪国で育った杉田にとってはじめて見る真っ青な空と海、光がまぶしい南国の風景であった。若い隊員の多くは、遠洋航海を経験しておらず南洋の島は印象的であった。
 上陸が許されると、隊員たちはサイパン島最大の都市であるガラパンの街へ出た。ガラパンはドイツ統治時代に港や道路が整備され、第一次世界大戦後は日本統治領になり、南洋庁のサイパン支庁がおかれていた。明るく広々とした道路の両脇に商店街があり、店頭にはたくさんの商品が並び活気づいていた。

 『ラバウル空戦記』(第二〇四海軍航空隊編、朝日ソノラマ)に、相楽孔整備兵曹のサイパン上陸時の記録が掲載されている。
 「整備分隊の相楽、川口、酒井、小浦方、吉田、堂免兵曹たちはサイパン到着の翌日に上陸した。彼らはおよそ十円の転勤旅費をもらい横須賀航空隊からいっしょに異動してきた仲間だった。六空に来てからは一度も外出しておらず、使うひまのなかった転勤旅費をこの上陸で使い切るつもりであった。戦地に向かう最後の寄港地であり、乗っている船が明日沈むかもしれないような命の身であると思えば、これが最後の機会だったのだ。相楽たちは他の隊員も引き連れて街へ繰り出したが、酒は飲めないし高級レストランに入るでもなく、艦内での食事の足しにとたくさんの食料を買い込んだが、結局五円も使い切れなかった・・・。」
 相楽は、後に気が合って杉田といつもいっしょに出歩くような間柄になるのだが、この移動時は分隊ごとの別行動で、おそらくまだ知り合う前だったと思われる。

 五月二十三日、ミッドウェイに向かう本隊は先発隊の出発した翌日に岩国基地へ向かった。五月二十三日には空母「赤城」に森田司令、兼子飛行隊長ほか六機が、空母「加賀」には玉井飛行長ほか九機が、その他に空母「蒼龍」、「飛龍」にも分乗した。空母便乗組は、即戦力と期待される技量A級がほとんどであり、直接零戦で着艦している。
 五月二十七日、海軍記念日を祝う行事が艦上で行われた。六空隊員を含めた全員が上甲板に整列し、設営隊長の門前鼎(もんぜんてい)大佐による訓示を聞いた。
「諸君、日本は大戦争に突入している。われわれは明日日没を期して太平洋の真っただ中にある敵の牙城を攻めるために出港する。生きて誉れあれ、死して悔ゆることなし。諸君の健闘をいのる」
 
下士官兵たちは、「敵の牙城」という言葉に憶測をふくらませた。どこへいくやら教えてもらってはいない。真珠湾をまた攻撃するのか、敵の機動部隊を追っていくのか、しかしミッドウェイを頭に描いたものはなかった。

 五月二十八日、外出禁止のまま暑い日がすぎ、午後六時に第二艦隊の輸送船十六隻、給油船十六隻、護衛の第二水雷戦隊など、あわせて五十隻近い艦がサイパンを出港した。第二水雷戦隊の旗艦は軽巡洋艦「神通」で、輸送船団の周りを駆逐艦や駆潜艇で固めた。この大輸送船団には、ミッドウェイ島に上陸する海軍陸戦隊二千八百人、陸軍三千人、陸上基地設営隊と物品、整備員、搭乗員などが満載されていた。この中の輸送船「慶洋丸」に、杉田を含め六空の搭乗員若手組が乗っていた。藤定正一一飛、矢頭元祐一飛、細野政治一飛、のちに杉田と共に山本五十六連合艦隊司令長官の護衛機を務めた柳谷謙治一飛ら約三十名である。
 船団はサイパン出港後三十分で米敵潜水艦と接触し、見張員は緊張を強いられた。相楽は、見張員を命ぜられており、当直時は緊張の連続となった。両舷二人ずつ四人一組で二時間交代である。とくに早朝と日没の見張りはもっとも危険とされた。乗船中、敵潜水艦にやられるんじゃないかという恐れと疲れからくる眠気と同時に襲われた。配置外の時間でも頭から離れずよく眠れなかったが、夜風に吹かれていつのまにか眠ってしまい、翌朝起きた時には「今日も生き延びることができたか」とホッとした。幸い敵潜水艦からの攻撃はなく緊張感の中で単調な航海が続いた。

 六月二日、味方潜水艦からの情報で、以前は無人に近かったミッドウェイ島が昼夜兼行で飛行場や基地施設の行われているということがわかる。ハワイ島には近寄れない状態で情報はつかめなかった。

 六月三日、アリューシャン攻撃予定日であったが天候不良で延期となった。偵察をしていた米軍のコンソリデーテッドPBY飛行艇四機から空母「隼鷹(じゅんよう)」は雷撃を受けるが被害はなく、逆にPBYは巡洋艦「高雄」の砲撃で撃墜された。「慶洋丸」甲板で見張りの当直を行っていた相楽は、甲板の七・七ミリ機銃で応戦した。弾倉を二個撃ち尽くしたがかすりもしなかった。相楽にとって生まれて初めての実戦だった。

 六月四日、夜になって総員集合がかかり上陸作戦の説明があった。説明後に、武装の確認と一食分の乾パン支給があった。

 ミッドウェイでは、歴史的な敗北に向けて日本の機動部隊は作戦の歯車を少しずつ狂わせていた。数日前、敵の動向をさぐるために真珠湾の偵察に出た二式大艇は、途中で敵水上艦と接触し、予定していた燃料補給ができずに引き返していた。米機動部隊の動向をまったくつかめぬままこの日を迎えている。
 六月四日に連合艦隊旗艦「大和」で敵空母らしき呼出符号を傍受している。しかし、先任参謀の黒島亀人大佐は、作戦のため通信制限を行なっている中なので、機動部隊旗艦の「赤城」もこの呼び出し符号を傍受しているだろうとして情報を握りつぶしてしまう。
 機動部隊では、戦艦や巡洋艦の索敵機の他に空母からも艦攻を追加して索敵を行う計画をたてていたが、実際には索敵機は七機しか発進させなかった。付近には敵機動部隊はいないだろうという憶測が判断を甘くしていた。また、重巡洋艦「利根」四号機の発進が三十分遅れるというアクシデントもあった。

 六月五日、第一次攻撃隊の零戦隊はミッドウェイ手前で迎撃してきた米戦闘機三十機をまたたく間に撃墜したが、地上基地には敵機の姿がなく、もぬけの殻だった。そして、このことの意味に気付けなかった。
 第二次攻撃隊はこのとき、艦上爆撃機が二百五十キログラム爆弾、艦上攻撃機は魚雷を装着して敵機動部隊への攻撃を想定、待機していた。第一次攻撃隊指揮官の友永丈一大尉は「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電、これを受けて機動部隊の最高指揮官南雲忠一中将は、再度の基地攻撃を決意し、陸上基地攻撃のために兵装を陸用爆弾と破摧(はさい)爆弾に換装し直すことにする。
 作業時間は一時間半から二時間を見込んでいたが、最も危険なその時間中にミッドウェイ基地から多数の敵機が来襲した。機数は多かったが、急降下爆撃機もSB2Uビンジゲーターが十二機、ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機が十六機と少し時代遅れの飛行機が混じっていて、精鋭搭乗員の操縦する零戦の相手ではなかった。待ち構えていた日本側の上空哨戒機は、これらの敵機を全機撃墜した。ボーイングB17爆撃機も追い払い、空母内での転換作業もあと少しで終わるという頃に、「利根」の索敵機が敵機動部隊を発見したと打電してきた。
 南雲中将は敵機動部隊を叩くという彼にとっては最重要の目的を遂行するために、再再度魚雷への転換を行うことを決断する。再び、危険な二時間を設けることになった。

 米軍機動部隊(第一六任務部隊)の指揮官レイモンド・スプルーアンス少将は、逆に作戦スピードを重視し、飛び立てる機から順次空母から出撃させ、攻撃に向かわせた。ミッドウェイ海戦については、数多くの資料があるので詳細は省くが、結果として空母「加賀」「蒼龍」「赤城」が魚雷転換中に攻撃を受け沈没、単身敵と戦うことになった「飛龍」も翌日には沈没する。重巡洋艦「三隈(みくま)」が同「最上」と衝突後、敵機によって撃沈。「最上」と駆逐艦「荒潮」が損傷。艦載機の損失が二百八十九機であった。そして何よりもベテラン搭乗員が数多く失われてしまった。
 日本側の攻撃により、米軍も空母「ヨークタウン」と駆逐艦一隻が沈没しているが、日本側の完敗である。六空では、兼子正飛行隊長が列機四機を伴い出撃、飛行艇二機を撃墜した。「赤城」沈没後は海面に不時着し無事救助された。

 ミッドウェイ作戦前の日米の戦力は、あきらかに日本が優っていた。米軍の空母は三隻しかなく、そのうちの一隻ヨークタウンはまともに戦える状態ではなかった。暗号を解読していたとはいえ、米軍は戦場での詳細な動きまではつかんでいなかった。米海軍の飛行機は古く、物資もぎりぎりに追い込まれていた。ミッドウェイ基地上空哨戒の戦闘機も旧式のブルースターF2Aバッファロー二十機とグラマンF4Fが六機だった。日本軍に優っていたといえるのは、ガッツとラッキーである。
 日本側の敗因はいろいろと研究されているが、暗号が解読されていたこと、優位な立場による驕りと長時間の防御無力状態で攻撃を受けたこと、そして空母自体の構造的な欠陥があった。
 米太平洋艦隊司令部では暗号解読が進み、大きな作戦(MI作戦、AL作戦)が進められていることについては察知していた。さらに、目的地らしき「AF」という地点を特定する努力が続けられており、偽電報をうつことでそれがミッドウェイであることまでつきとめていた。

 日本軍側では真珠湾攻撃のときのような厳しい機密保持が徹底していなかった。呉軍港ではAL作戦用の夥しい防寒被服が公然と空母に積み込まれていて、出動方面が推測できた。呉の床屋が海軍士官に艦隊出動のうわさ話をしていたとか、海軍専用の料亭では芸者が「次はミッドウェイを攻撃するんですってね」と言ったとか、防諜はすっかり緩んでいた。米軍の艦隊司令部のあるハワイですら日本人移民の間で、次はミッドウェイだといううわさ話がされていたという。圧倒的な戦力差とこれまで負け知らずというおごりが緊張感を乏しくすることになってしまっていた。
 数で優位にたっていた正規空母があっけなく爆発沈没したのは、構造的な欠陥のためである。米軍空母は甲板下格納庫がオープンになっていて爆風などを逃す構造であったのに対し、日本の空母は密閉式格納庫になっていて気化した艦載機のガソリンが溜まったところに火災が起きた。さらに悪いことに朝から兵装転換が二度命令され、陸用爆弾を急いで魚雷に再再整備している最中で、攻撃機から下ろした爆弾は弾庫にしまう余裕もなく格納庫にごろごろ置かれたままだった。火に油ならぬ爆弾をそそぐ結果になり、いっぺんに甲板ごと爆発がおきてしまったのだ。

 杉田を含めた六空本隊の乗った輸送船団は、ミッドウェイ海域での戦闘が行われている頃、ミッドウェイ南西五百浬(約九百三十キロメートル)の洋上を蛇行運動で航行していた。昼頃である、船団両側について護衛していた駆逐艦群がそろって離れていった。同時に船団も進路を一斉にかえて反転しはじめた。相楽は「何かあったぞ」とブリッジに駆け上がり、知り合いから情報を集めると次のような内容であった。
「わが連合艦隊は五日未明、ミッドウェー島の攻撃を開始した。しかし、手違いからわが方に損害を生じ、ミッドウェー島の攻略を断念せざるを得ないので、艦船団は速力別に集団をつくり南鳥島(ウェーク島)に向かって退避せよ。駆逐艦隊は護衛を解き、第一線に急行せよ」
 
さらに「船団は全速力で退避することになったが『慶洋丸』は僚船『宗谷』とともに殿(しんがり)をつとめる」という情報がもたらされ相楽たちを驚かせた。

 刻々と入ってくる情報は悲惨なものであった。「目下、大激戦中」から「『赤城」が大破し航行不能になった」「やむを得ず味方潜水艦によって『赤城』を撃沈」などの残念な戦果から不確かな「敵巡洋艦が輸送船団を追撃してするらしい」という情報まで伝わってきて、鈍足な輸送船の速力に相楽は恐怖を覚えた。
 敵の追撃はないらしいという情報が伝わりホッとしたが、「どうやら大敗したらしい」「『加賀』もやられた」などの情報も入ってきて愕然とする。翌々日になって安全圏に入った頃、艦内ではだれかれなく様々なうわさ話が飛び交った。

 六月十一日、船団は敵の追撃にあうこともなくトラック島に無事戻った。湾の中には戦場から戻った大小さまざまな艦艇が停泊しており、相楽の記憶では、ドックに後部を破損している艦が入っていた。そして、見渡したところ一隻も空母がいなかった。大小の軍艦の中でひときわ目立つのが呉から進出してきた戦艦「大和」だった。六空の隊員たちも、はじめて「大和」を見て、その巨大さと同時に「いったい巨大戦艦が戦争に役に立つのか」という思いを抱いた。
「戦場の主役は航空機に移っている。俺たちはその航空機の部隊だ。大鑑巨砲の時代は終わったのに肝心の空母を日本は失ってしまった。」
航空部隊である六空隊員の思いは複雑だった。

 トラック島での滞在は三日間で、ともにミッドウェイの部隊になるはずだった基地設営隊と分かれ六空隊員たちは、そのまま「慶洋丸」で日本に戻ることになる。

 つぎの回では、日を少しさかのぼってアリューシャン作戦と参加した六空別動隊を追ってみたい。

<参考>

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