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上越立ち止まりスポット8(附属小学校内銅像)

なかなか一般の人が入る機会がないのだが、上越教育大学附属小学校内にも銅像や石碑がある。高田師範学校から続く伝統ある附属小学校であり、この学校を卒業したものは、毎日見慣れているので誰かとも思わず卒業したことと思う。私も隣接している学校教育実践研究センターに10年以上勤務していて、そこに銅像があるのは知っていても所以は知らなかった。校門の左手駐車場の奥にその像はある。

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像には「平野秀吉(ひできち)先生像」とある。数多くの教育者を排出している高田師範学校からの流れの中で唯一この地に建っている像である。裏面の頌徳文(しょうとくぶん)には「名利を外にして一に其の道を楽しむ 先生。徳学力行、教えて倦まず 諭してからず、門弟三千、風を慕ひ徳に服し 相会すれば談 必ず其の事に及ぶ」とある。

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頌徳とは、偉人や先覚者の徳を讃えるという意味である。数多くの徳のある教育者を排出したであろう高田師範学校から上越教育大学までの歴史の中で、頌徳碑が建てられているこの平野秀吉先生はどんな人物なのか。先年、上越教育大学40周年記念で上越の教育について講演をしていただいた寺田喜男元特任教授の資料に平野秀吉先生のことが記されていた。

師父と仰がれた平野秀吉
平野秀吉は、1873(明治6)年6月5日、西蒲原に生まれています。1901(明治34)年4月から高田師範学校教諭、1921(大正10)年8月に退任、退任後も1934(昭和9)年まで嘱託として勤務し、通算34年間を高田で過ごされています。この間、多くの著書を残しています。中でも『綴り方教授の根本的研究』<1915(大正4)年初版>は大きな影響を与えました。平野秀吉の著書に刺激を受けて、師範学校卒業生から優れた教師が多数生まれました。また、卒業生に限らず各地で指導や講演を行い、とりわけ綴り方教育に大きな影響を与えました。
平野秀吉の影響を受け、吉田孝蔵(附属小学校)『綴り方教育の実践的研究』、丸山林平(東京高等師範訓導)『国語教育学』、宮川菊芳(同)『鑑賞指導国語教育論叢』が刊行、他に内藤好忠、三浦成作等の多くの実践家が生まれています。生活綴り方運動「山芋」(大関松三郎)の編集・出版を行った寒川道夫も卒業生の1人です。綴り方教育の取組は、後の上越地域の作文指導にも繋がっているように思われます。

(2018.10.6  上越の教育風土を育んできたもの 講演資料 寺田喜男元特任教授)

私は20代最後を東頸城郡松代町蒲生小学校(現十日町)の教諭として過ごした。全校児童が30人くらいの複式学校で、分校も一つ抱えてた山深い僻地5級の学校であった。ここにいた3年間で二人の先輩教諭の退職を見送った。お一人は、元陸軍の少年航空兵だった方で私の父親と同じくらいの世代の方。おっかない外見であったが、メガネの奥にやさしい瞳をもっておられた。後に町の教育長になられた。もう一人の先輩は、物腰のやわらかいいつもニコニコしておられる方で、この方はもともと東京のご出身であった。戦後日本にあって教育者としてありたいと志をたて、ご夫婦で山深いこの地に根をおろして教育に携わった方だ。この先生は、生活綴り方教育を続けてこられた方だった。子供達の生活に根ざした文集を私も訳がわからないまま手伝って作成した。新潟県の生活綴り方教育の実践者の集まりが上越市の山崎館(今のハイマートの前身)であるというので、勉強になるよと連れて行かれて研修に参加した。今考えると日本作文の会の研修会だったかもしれない?当時直江津海岸の近くにあった旅館の長い座敷にたくさんの実践者が集まり勉強会を行った。生活綴り方教育の運動はもう無くなったが、上越の教育の特徴である生活体験に根ざす思想として残っている気がする。そして、その礎を築いたのが平野秀吉先生だったということだ。

大関松三郎「山芋」の詩は、生活綴り方運動の会に連れて行かれる以前から知っていて大好きな詩だった。初任者の頃、毎朝クラスの子供と詩を暗唱していたが、「山芋」の詩もその一つだった。

 山芋    大関松三郎
しんくしてほった土の底から
大きな山芋をほじくりだす
でてくる でてくる
でっこい山芋
でこでこと太った指のあいだに
しっかりと 土をにぎって
どっしりと 重たい山芋
おお こうやって もってみると
どれもこれも みんな百姓の手だ
土だらけで まっくろけ
ふしくれだって ひげもくじゃ
ぶきようでも ちからのいっぱいこもった手
これは まちがいない 百姓の手だ
つぁつぁの手 そっくりの山芋だ
おれの手も こんなになるのかなあ

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講演資料にも名前が出てきた寒川道夫が戦前勤務していた新潟県古志郡黒条小学校の学級文集『青い空』に載せられた詩である。大関松三郎自身は戦死しているが、戦後に詩集が刊行され、生活綴り方を代表する作品として知られる事になる。

大関松三郎「山芋」について、寒川道夫は前書きでこのように書いている。
「松三郎は、小学六年生の1年間に書き溜めた詩を、じぶんでまとめて、詩集『山芋』をつくりました。それは、松三郎のクラスの子どもたちが小学校を卒業していく三学期に、みんなが、その年に書いた、めいめいの詩や、作文や、研究などを、それぞれ自分でまとめようではないかともうしあわせてつくった、その1冊なのです。・・・あの、いやな太平洋戦争がはじまり、私が、ようやく自由になって家に帰ってきたときは、もう、松三郎は戦死したあとでした。・・・終戦後、私は、松三郎の、あの若く雄々しい魂をいたむ思いにせまられ、それとともに、民主主義教育の出発のために、もう一度、松三郎の詩にかたらせることは、けっしてむだではないと考え、八方手をつくして、散らばっていた松三郎の詩を集め、多くの人びとのあたたかい協力を得て、ここに『山芋』の新生をみることができたのでした。」

大関松三郎は、古志郡黒条村下下条(現・長岡市下々条)に小作農の子として昭和元年(1926)に生まれた。黒条尋常高等小学校(現長岡市立黒条小学校)で寒川道夫の指導を受けた。新潟鉄道教習所を経て、海軍の少年兵に志願し防府海軍通信学校で学んだ後、マニラに赴任する途中、雷撃を受けて船とともに南支那海に沈んだ。

私の父も昭和2年生まれで直江津尋常高等小学校卒業後に頸城鉄道で助手として働いた後、海軍少年兵に志願し、魚雷整備兵として鹿屋基地で毎日、特攻隊を見送っていたという経験をもっていた。ほぼ同じ頃に同じ経験をしていたのだ。赴任先が違ったので生き延びたといえよう。当時、海軍少年兵に志願するものが多かったが理数科のテストや体力テストなどが課せられ、倍率は70倍だったという。建築設計の仕事をしていた親戚のおじさんに数学を教えてもらい、必死に勉強したと聞いている。その中でも特に優秀なものが搭乗員になったのだという。そして、特別攻撃隊に選抜されていったのだ。

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大関松三郎と寒川道夫については、南雲道雄さんが「大関松三郎の四季」という本を書いている。丁寧に日記などを追い、当時の世相や農山村の暮らしなどもよくわかる内容になっている。

話が生活綴り方と大関松三郎に走ってしまった。もとに戻そう。

平野秀吉先生の下、生活に根ざした学びを模索する多くの若い教師が育っていった。平野秀吉先生は日本の教育の一つの方向に影響を与えるような業績を残した教育者だったのだ。
平野秀吉先生は、今もたくさんの児童の遊ぶ姿を見つめている。

「山芋」
寒川道夫編著
講談社文庫 昭和54年

「『山芋』の少年詩人 大関松三郎の四季」
南雲道雄
現代教養文庫 1994年






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