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杉田庄一ノート68 昭和19年10月フィリピン沖海戦、しかし菅野・杉田は内地に戻る

 ダバオ誤報事件のあとのセブ島空襲で戦闘306飛行隊も零戦がほとんどなくなってしまう。フィリピンへの空襲はその後も激しさを失わず、連合国軍のターゲットは間違いなくフィリピンを示していた。大本営は9月22日に「比島作戦準備」を発令する。

 セブ島に退避していた201空は、9月中旬に入ってから残っていた零戦による「反跳爆撃」(スキップボミング)の訓練を命ぜられるが、事故死者が続いて出たため中止になる。このことは以前note『杉田庄一ノート32』に記している。

 10月になり、いよいよフィリピンで決戦かという空気のようなものが航空隊にも流れていた9月中旬に中島正飛行長が菅野直大尉を呼び出し命令する。
 「貴様、内地へ帰れ」
 しかし、菅野大尉は猛反対をする。
 「もうじきフィリピン方面に大戦闘が起こります。いま内地に帰ると、この戦闘に間に合いません。いやです。他の分隊長に代えてください。」
 そういってねばる。
 「貴様の代わりに他の者を返したら、それが戦闘に間に合わんじゃないか。他の者は皆一度は帰っているだ。貴様だけがまだなのだから帰れ!」
 という経緯があって内地へ帰らされることになった。前述のように零戦がなくなっていたのだから仕方なかった。しかも、菅野大尉だけが確かに前線にい続けた唯一の士官搭乗員だったのだ。ということで菅野分隊は零戦空輸のために内地に戻ることになった。杉田や笠井氏なども久しぶりに内地の土を踏むことになる。この内地帰還中に、フィリピン沖海戦が起こり、最初の神風特攻隊が出撃することになる。菅野分隊が選ばれるはずだったが、このとき内地に戻っていた。このエピソードは後述する。

 10月9日、アメリカ機動部隊の総指揮官ハルゼー大将は重巡洋艦と駆逐艦による小艦隊を沖縄近海に出没させる。10日には沖縄、奄美大島、南大東島、宮古島を約340機の艦載機で攻撃する。11日は、ルソン島北部アパリ飛行場、12日および13日は台湾全土を空襲した。フィリピン上陸の前に日本軍を混乱させる陽動作戦であった。陽動作戦とはいえ、12日の台湾への空襲は延べ1100機、13日は延べ1000機という大規模なものであり、日本軍側も機動部隊へ反撃を行う。二日間のアメリカ機動部隊への攻撃で空母9〜13隻を撃沈し、敵戦力の大部分を壊滅させたと戦果をまとめた。

 しかし、この戦果は誤認にもとづく誇大戦果で、実際は空母1隻と巡洋艦2隻が損傷しただけであった。この頃の後方基地搭乗員(台湾はまだ後方基地だった)の練度は低くなっており、戦果を正確に報告することも叶わなかったのかもしれない。あいかわらず14日も15日も敵艦載機による空襲が続くので、大本営海軍部も、これはおかしいと気づき再調査すると、損害をあたえただけで撃沈は1隻もないことがわかる。15日には、二十六航空戦隊司令長官の有馬少将が、ルソン島沖の敵機動部隊への攻撃に自ら参加し、敵艦への自爆攻撃を行う。ダバオ事件の責任をとったのではと噂をされたが、定かではない。しかし、司令官自らが敵艦に突っ込んだということの影響は大きかったのではないかと推測する。

 10月20日、ハルゼー大将の率いるアメリカ第三艦隊は、制式空母8隻、新型戦艦6隻を基幹とする大機動部隊をもってフィリピンのレイテ島に上陸を開始する。日本軍も残っていた艦艇をすべて投入し、10月23日から25日にかけて史上最大の艦隊決戦が行われる。述べ4日間にわたり200隻の軍艦と2000機の航空機が激突した。
 日本海軍は正規空母『瑞鶴』と小型空母3隻を囮部隊(小沢艦隊)としてフィリピン沖1000kmの地点にアメリカ艦隊を誘い出し、その隙に戦艦『大和』、『武蔵』、『長門』などの戦艦群をレイテ湾に突入させアメリカ軍上陸部隊を叩くという作戦であった。この囮作戦に引っ掛かりアメリカ艦隊は800kmも追跡してしまうのだが、無線連絡がうまくできず主力部隊(栗田部隊)につりだし成功の連絡が届かなかった。アメリカ艦隊は、その間に日本の主力艦隊の動きを察知し、また800km引き返すという動きをする。アメリカ艦隊は囮作戦に引っかかったにもかかわらず、栗田艦隊はドタバタな動きで戦場を離脱することになる。具体的なフェーズは次のようになる。

 23日夜明け、栗田艦隊がアメリカ潜水艦2隻から攻撃を受け、重巡洋艦『愛宕』と『摩耶』が沈没、同『高尾』は大破。
 24日午前、『シブヤン海海戦』。日本軍機の攻撃により空母『プリンストン』が沈没する。おなじく午前中、アメリカ軍機の波状攻撃で戦艦『武蔵』が沈没する。魚雷20本、爆弾10発を受けて沈んだ。
 24日の深夜から25日未明にかけて、『スリガオ海峡海戦』。西村部隊がアメリカ戦艦群により壊滅する。
  25日午前、『エンガノ岬海戦』。日本の空母部隊が、ハルゼーの艦隊を誘い出すが、反撃に遭い空母4隻が沈没する。
  同じく25日午前、『サマール沖海戦』。栗田艦隊がアメリカの護衛空母群を襲撃し、空母1隻、駆逐艦3隻を撃沈する。
 25日午後、アメリカ護衛空母群が『神風特攻隊』の攻撃を受け、大損害を被る。

 このようなフェーズで戦いは行われたが、着目したいのは25日の午後に行われた「神風特攻隊」による攻撃である。ついに日本海軍は組織的な体当たり戦術を実行したのだ。このあと日本陸軍も同様の特攻作戦に乗り出し、終戦まで3000機以上の飛行機(時代遅れの練習機も含めて)で出撃することになる。

 ところでこの神風特攻隊を編成するときに玉井副長の頭にあったのは菅野分隊だった。しかし、菅野をはじめ、分隊全員で内地へ帰っている。そこで、菅野と同期の関行男大尉が選ばれたのだ。猪口力平中佐は、『神風特別攻撃隊の記録』(中島正・猪口力平、雪華社)の中で次のような会話があったと記している。玉井副長と猪口参謀の相談場面である。二人はそのことを知らなかったが、関大尉は5月31日に結婚したばかりであった。


 「指揮官には、兵学校出のものを選ぼうじゃないか」(猪口)

 「菅野がおればいいのだがなあ!」(玉井)

 ・・・(指揮官格の士官搭乗員は14〜5名いた。その中で菅野の次に「この男は」と浮かんできたのが関だった。)

 「どうだろう、おれは関を出してみようと思うんだがなあ」(玉井)

 「よかろう」(猪口)

 関大尉を指揮官とする最初の神風特攻隊は、大きな戦果をあげるが、フィリピン沖海戦は日本軍の完敗で終わる。フィリピン沖海戦では、戦艦3、空母4、巡洋艦10、駆逐艦11隻、航空機600機が失われる結果となった。これで日本海軍には戦える軍艦はほとんどなくなってしまう。



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