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上越立ち止まりスポット30金谷山公園その2

ロッジ・レルヒに至る道には高田事件の碑や薩摩墓地、小田嶽夫の碑がある。

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その1で記した倉石侗窩(どうか)の碑の全体像。道の反対側には戊辰戦争高田墳墓地がある。

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高田藩の戦死者の碑。慶應4年(1868)鳥羽伏見の戦いのあと、越後で佐幕側と伸政府側で戦闘が行われた。北越戊辰戦争である。譜代大名であった高田藩であるが、賛否両論の分かれる中で反佐幕側についた。高田藩は、長岡城の城攻めで先鋒にたち戦死者を多く出した。従軍した藩兵は760名。戦死者79名。負傷者41名。江戸屋敷にいた高田藩士92名は彰義隊に加わり、戦死者を出しながら榎本武揚軍とともに五稜郭にこもり、五稜郭陥落後に高田に戻されたという。

北越戊辰戦争での高田藩士以外の薩摩藩、長州藩、豊後藩などの戦死者もこの地に葬られた。

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西郷隆盛の弟、西郷吉二郎の墓もあるはず。見つけられなかった。

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この墳墓地の少し上に医王寺があり、その入り口に小田嶽夫の碑がある。

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小田嶽夫は、本名小田武夫。明治23年(1900)に本町1丁目で生まれる。東京外語大学中国科を卒業後、中国杭州領事館に勤める。小説「城外」で芥川賞を受賞。昭和54年に79歳で死去。

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小田嶽夫の碑を横にみて奥まで進むと医王寺がある。
江戸時代、越後中将光長の母勝子(高田姫)が薬師堂を寄進し、城下の名所となる。この金谷山の別名は、薬師山であり、本尊は東北一美しいといわれた「銅造如来坐像」である。

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そのすぐよこに高田事件の碑がある。

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上越地域の自由民権活動家によって作られた頸城自由党員に対する一斉検挙が行われた。高田事件という、明治16年のことである。「天誅党旨意書」を作成した赤井景韶、井上平八郎、風間安太郎の3人を残して赦免されるが、この3人は国事犯陰謀の容疑ありとして東京高等法院にまわされる。赤井景韶は重禁錮9年の判決を受けるが、脱獄逃走、途中で人力車夫を殺害し死刑になる。

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国事犯の文字が大きく刻まれているのが異様だ。

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