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上越立ち止まりスポット(高田城址公園①)

2020年から高田公園が高田城址公園に名前を変えた。今回は上越市立歴史博物館の駐車場から公園内を散歩する。

6月中旬、すでに蓮が鮮やかな緑。これから夏にかけて掘を埋め尽くすほど蓮が育つはず。この堀に沿ってたくさんのブロンズ像が並んでいて、ブロンズプロムナードと名付けられている。プロムナードの中ほどにレンガで作られた門があり、ここから高田公園に入る。

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お花見の会場になっているときはたくさんの出店と人手でつい見過ごしてしまうが、この門、実は歴史的遺物。

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日本帝国陸軍第13師団が高田城跡地に師団本部をおいていた時の営門(正門)が残されているのだ。営門横に詰所が設けられ、衛兵が常時立哨していた。看板に当時の写真がパネルにされていた。

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第13師団は、明治38年(1905)3月、日露戦争中に新設され、前線に赴き樺太を占領した。講和条約後に韓国に駐留し、帰国した時に高田に師団本部が設けられ、同年11月に凱旋入場した。以後、軍備縮小とともに大正14年に廃止されるが、日中戦争激化に伴い再編成される。高田以外に松本、会津若松、新発田、仙台に所属部隊をもち主に中国戦線で戦った。蒋介石が所属していたこともある。長岡外史師団長の時に駐在していたオーストリア武官のレルヒ少佐がスキー術を伝授し、日本のスキー発祥の地ともなっている。

営門から入ってすぐ左手に石碑などがたくさん並んでいる。

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現在(令和2年6月)、小林古径邸は大規模改修中で途中までしか近寄れない。

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樫野直一(かしのなおいち)は、明治22年(1889)年の生まれ。高田農業学校卒業後に母校に乞われ教師になる。その後、農業技師として活躍し、中頸城郡地方事務所長となり北陸農事試験所の誘致に尽力し設置となる。戦後も地方農業行政にたずさわり新潟県内外で活躍、昭和30年からは高田市助役として地方自治にあたった。

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植木千次郎は、明治27年(1896)に下百々(保倉地区)に生まれる。23歳で織物製造業を創業、数々の事業経営を行う。その後、新道村村議会議員ならびに村長。高田市近隣7ヶ村合併の中心的役割を果たす。昭和42年(1967)逝去。
第2代上越市長植木公の実父。

坂口謹一郎博士の石碑もある。

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「こしのくにのしるしのはなのゆきつばきともかきこそりてうえみてませり」
坂口謹一郎は、明治30年(1897)生まれの世界的微生物学者で「お酒の博士」で知られる。新春歌会始の召人も務め、歌人としても知られた。

城址公園の中は春になるとお花見会場となり人だらけになるが、通常は落ち着いた雰囲気の公園である。私の子供の頃はサル動物園があった。内堀まで来ると三重櫓が見える。

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この橋を通り、三重櫓をすぎると上越教育大学附属中学校の校舎がある。

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このあたりは文教地区になっていて、附属中学校のとなりは新潟県立上越総合技術高等学校、道路を挟んで上越市立城東中学校、お堀を挟んで新潟県立北城高等学校、道路沿いに上越教育大学附属小学校、さらに道を伸ばして上越市立大町小学校、上越市立大手町小学校学校、外堀には新潟県立高田高等学校、新潟県立南城高等学校と高田城址公園のまわりは学校が非常に多く集まっている。附属中学校は、中でもど真ん中、本丸跡に建っている。

附属中を抜け、城址公園のはずれまでいくと正門と似たような造りの門がある。これは第13師団の裏門になる。この門も営門同様、この地に師団があったことの痕跡である。

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ここまできて折り返し、営門まで戻る。途中に極楽橋によって、堀のつくりを確認。極楽橋は本丸と二の丸を結ぶ橋として築かれた。

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高田城は、慶長19年(1614年)徳川家康六男、松平忠輝(越後少将家)の居城として伊達政宗によって造られた。伊達政宗は忠輝の舅である。
平城で四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、三ノ丸、北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として利用した。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。天守はないが三重櫓を建てて天守の代用とした。高田城築城の4年前には規模としてもっと大きな福島城を築いており、そこを廃しての移城は戦略的な意味をもっていたと思われる。

極楽橋の向こう側は市立図書館や県立武道場など各種の文教施設群がある。今回はここまでで駐車場にもどる。40分の行程。

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