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杉田庄一物語 タイトル画について

数日前から杉田庄一物語のタイトル画を、三四三空時代の杉田の乗機、紫電改「A-343-11」に変えた。

このイラストは、イタリア在住のエンジニア、フラビオ・シルベストリさんの描いたコンピュータグラフィクスである。フラビオさんは、小さい時から第二次世界大戦時の飛行機が好きでプラモデルを作ったり、イラスト描いたり、文献を読んだりしていたそうだ。現在は50代後半のはず。数年前にメールをいただき、ときどきやりとりをしている。


フラビオさんの描いたA-343-11

フラビオさんは、英語の文献の中で杉田庄一のことを知ってから、ずっと杉田のことを研究しておられる熱狂的ファンである。私よりも詳しく調査していて、このサイトもgoogleを通して、見ておられる。

今回、私が杉田庄一物語をnoteのマガジンで連載するにあたって励ましのメールとこのイラストをタイトルに使う許可を与えてくれた。

また、このイラストを描くにあたってご自分で調査されたことを長文のメールで知らせてくれた。私が知らなかったこともたくさん書かれているので、いくつか簡単に紹介したい。

・A-343-11号機は、少なくとも二機あって、二機目は四月に鹿屋基地に移動する直前に杉田に割り当てられた。そのときのA-343-11号機は、おそらくより狭い弦尾翼と翼下の爆弾ラックを特徴とする後期 N1K2-J モデル (101 番目の生産以降)であろう
・4月15日、杉田は戦死するが、そのとき炎上したはずのA-343-11号機が、松村中尉(4月16日)と杉田中尉によって作戦飛行で使用されている。また、菅野直志(5月21日)も使用している。
・4月12日の作戦で杉田は初代A-343-11号機のキャノピーを吹き飛ばしている。そのため修理されていた初代A-343-11号機が、16日に復帰したのではなかろうか(これは石野の推測)
・この頃の紫電改の塗装は、塗料を節約するため下面は無塗装で金属表面そのものか薄いグレーで塗装されていた。塗料の品質が非常に悪かったため、すぐにはげ落ちてしまっていた。
・航空史家の大尾和彦氏によるとA 343-11には少なくとも 16 個の勝利マークが写っている写真があるそうだが、現物は不明である。写真を入手できないため位置(左舷または右舷側)、寸法、形状を確認できない。あくまでも伝聞情報である。

その他、塗装色や飛行服、ゴーグルなどの記述もある。よくここまで調べているなと感心する。

ところで、A-343-11号機に1本の黄色い帯が「日の丸の前」に描かれている絵と「日の丸の後ろ」に書かれている絵とがある。菅野大尉の乗機A-343-15の写真が残されていて、これにははっきりと「日の丸の後ろ」に2本の黄色い帯が描かれている。しかし、他の隊でも区隊長に帯が描かれているが、「日の丸の前」であったり「日の丸の後ろ」であったり、白であったり黄色であったり、とまちまちである。隊員の記憶でも定かでなく、証拠写真がないと判定できない。水性塗料で描かれていたためにすぐに塗り直せたという証言もあったとフラビオさんは伝えてきた。A-343-15にならって、フラビオさんは「日の丸の前」説をとっている。

A-343-15

黄色の帯2本は、301飛行隊長兼第1区隊長を知らせるマーク。杉田は第2区隊長だったので黄色い帯1本を描いた。

整備分隊長の言によると、A-343-15やA-343-11は隊長機であったため念入りにエンジン調整をしたそうだ。紫電改の「誉」エンジンは、故障が多く調整が難しかった。松根油がまざったひどい燃料で他の機がエンジン不調をおこしても、常に最優先で調整されたA-343-11やA-343-15は、快調にエンジンが回った。そのため、杉田の戦死後に復帰した初代A-343-11も隊長クラスが好んで使ったのだろう。

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