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杉田庄一ノート59 笠井智一氏、「杉田との出会い」

 令和3年1月9日に兵庫県尼崎市の病院で笠井智一氏は死去した。94歳であった。私はその1年ほど前から杉田庄一のことを調べ出し、ぜひ一度お会いしてお話をうかがいたいと思っていたが、コロナ禍に重なり願いは叶わなかった。笠井氏は、杉田の列機として最後まで戦い、もっとも杉田のことを知っていたのだ。笠井氏は、太平洋戦争で多くの戦死者を出した予科練甲飛10期生で、杉田に出会わなければ自分は生き抜くことはできなかったとさまざまなところで述べている。

 笠井氏は大正15年、兵庫県多紀郡篠山町(現丹波篠山市)の農家の生まれで、男三人、女二人の兄弟の末っ子である。体は大きく、写真などから推定すると180cmはあったと思われる。昭和17年(1942)4月に、中学4年で甲種予科練に合格する。この頃の予科練は、甲種(幹部搭乗員候補で旧制中学校4年修了が条件)、乙種(下士官搭乗員候補で高等小学校卒業が条件)、丙種(旧操縦練習生制度に該当する者:下士官兵から選抜して搭乗員を育成する制度)の3種類に分けられていた。杉田は丙種予科練である。

 昭和18年5月に予科練を修了し、第32期飛行練習生として霞ヶ浦空千歳分遣隊で初歩飛行訓練を受ける。10月31日、飛行練習生教程修了。昇進は早く、11月1日には二飛曹に昇進する。11月3日、徳島空付となり零戦をつかっての戦闘機専修課程を受ける。通常であれば戦闘機操縦課程は約6か月間行われるのだが、ミッドウェイ海戦およびその後のソロモン航空戦で多くの搭乗員がなくなった頃であり、前線では一人でも搭乗員が欲しいという状況で、甲飛10期生は20日間ほどの延長教育を受けただけで戦場に出されることになった。『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)の中で次のように経緯が記述されている。

 「先輩たちは部隊配備の前に飛練と延長教育を合計1年から1年半くらい受けており、われわれもその予定でいた。しかし十一月下旬のある日、徳島の基地に一機の零戦が着陸した。操縦席から偉い人が降りてきて、ライフジャケットを見たら『豹部隊司令』と書いてあった。玉井浅一中佐(当時。海兵五十二期)だった。搭乗員の数がとにかく不足していて、一日も早く練習生が部隊にほしいので、習熟度合を確認しにきたのだ。
 しばらくすると、『いまから名前を呼ぶ者は、明日卒業だ』といわれた。零戦で単独着陸ができるようになった練習生の中からつぎつぎに名前が読み上げられ、その第一回卒業生の中に私の名前も入っていた。そのころは南方戦線も非常に厳しい状況になっており、延長教育はわずか二十日で切り上げられ、私は同期とともに半ば強引に実施部隊へ配属されることになった。

 こうしてあわただしく空輸をかねて前線の部隊に向かった者の中には海中や山中に墜落し、実施部隊につかなかった者も複数出ることになった。もっともそれ以後の期は、搭乗する飛行機も無くなった上に飛行機外の特攻隊編成にあてられてしまうのだが。

 昭和18年11月笠井氏は内地の263航空隊「豹部隊」に配属となり、零戦での離着陸訓練、編隊訓練、基本的な特殊飛行訓練を受ける。昭和19年3月、実弾射撃訓練を2〜3回受けた段階で、仲間の甲飛10期生の搭乗員たちと零戦を操縦してサイパンの基地へ向かうことになる。硫黄島を経由してサイパンに着くまでにエンジン不調で引き返したり、墜落したりで17~8機中無事着いたのは12〜3機だった。数日後にグアム島に移動し、実戦部隊配備となる。しかし、すぐには実戦には出してもらえず編隊飛行などの訓練を最前線で行うことになる。その時の玉井司令から「お前らはあっちへいけ!お前らにはまだ空戦の技量はない。いま上がったら片っ端から墜とされるぞ!お前らに空戦の資格なし!」と言われる。先輩の搭乗員が次々と戦死していく中で悔しさを感じながら訓練を続けていた。そんなときに杉田がグアムに赴任してくる。そして、笠井氏は杉田の列機にあてられ、徹底的に操縦技術を叩き込まれることになるのだ。杉田につかなかったら生きておれんかったと笠井氏は言うが、実際に263空に配属された甲飛10期生42名のうち戦後まで生き延びたのは2名だけであった。

 笠井氏は、『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)や『三四三空隊誌』などに杉田との出会いの場面を詳細に記している。また、講演会などでも杉田との出会いを述べていて、YouTubeでじかに講演会での話を聞くこともできる。それらの話をまとめると次のようになる。

 昭和19年4月末、ギラギラした焼け付くような暑い太陽の下、油をながしたように穏やかな湾に面したグアム島第一基地に、ダグラスDC3輸送機に乗って内地から杉田が転勤してくる。ライフジャケットを肩にかけ、ゆっくりした歩みでずんぐりした杉田が搭乗員が集合している待機所の天幕にやってくる。顔の火傷痕も生々しく、左手は包帯をしている。右手は青白くなっている。見るからに精悍な下士官搭乗員だ。
 「杉田一飛曹、転勤で参りました」
 玉井浅一司令の前に来ると独特の片拝みをするような宜候型(ようそろがた)の敬礼をして転勤報告をした。司令は、整列をしている搭乗員に紹介する。
 「本日着任の杉田一等飛行兵曹を紹介する」
 台上に立った杉田があいさつをする。
 「おう、おれが杉田だ。何も言うことはない。編隊にしっかりついて来い!」
 それだけいうと台から降りた。
 杉田が去ったあと、過去の戦歴を知っているものはおらず、若手搭乗員たちはいろいろと憶測を言い合う。
 「おっかなそうだな、ラバウルにいたらしいぞ」
 「顔はやけどをしとるし、なぐられるんとちがうか」
 圧倒される迫力にみんなびくびくしていた。山本五十六司令長官の護衛機だったことは誰一人、戦後まで知らなかった。

 すぐに新しい編成が発表になり、笠井氏は杉田の3番機に指名されている。笠井氏は覚悟するが、心中おだやかでなかった。
 「ああ、やれやれ、こりゃいつなぐられることになるかわからん」

 夕方になるとすぐにお呼びがかかる。
 「今日、編成替えがあった俺の愛する列機こーい」
 「え?杉田一飛曹がさっそく俺たちを呼んどるぞ。挨拶がわりに一発ぶんなぐらるんかな」

 と、列機に指名された三人で恐る恐る出向く。食卓に晩飯が用意され、一升瓶がでーんと据えられている。すでに半分くらい減っていて、杉田はかなり上機嫌になっている。玉井司令からもらってきたらしい(玉井司令は、ラバウル時代の杉田の上司であった)。
 「官等級氏名、名乗れ!」
 はじめて戦地に出てようやく制裁から逃れることができたのに、練習生時代と同じようにバッターの洗礼を受けるのかと戦々恐々として申告する。
 「甲飛十期生出身二等兵曹、笠井智一!」
 杉田は、小さい声で
 「よーし、そうか。お前が今日から俺の三番機か」
 そのあと、大きな声で
 「俺の三番機になったら酒ぐらい、どんぶりで飲まんようではグラマンは勝てんぞ!」
 さあ飲め飲めと、どんぶり茶碗で酒盛りがはじまった。笠井氏は、まだ17歳で酒を飲んだことがなかった。杉田も19歳なのだが・・・。
 「おい、お前ら、戦地というのはそんなに簡単なもんじゃないぞ。お前らみたいなやつが敵を墜とそうなんて思い上がっていたら、みな墜とされてしまうぞ!墜とさなくてもいいから、とにかく俺についてこい!」
 またたくまに一升瓶があくと、「ちょっとまっとれ」と言って、よろめきながら一升瓶を肩に歌いながら戻ってくる。そして、次の日から編隊空戦の訓練と夜の酒盛りの日々が続くことになる。酒がなくなると、どこかに一人で出かけ、搭乗員節をうたいながら一升瓶をかつぎ、歌いながら戻ってくる。
  ソロモン群島やガダルカナルへ
  今日も空襲大編隊
  翼の二十粍雄叫びあげりゃ
  墜ちるグラマン、シコルスキ〜シコルスキ、っと

 杉田と笠井氏の出会いの場面である。笠井氏は圧倒され、このときのことをよく話のタネにしていた。





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