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杉田庄一ノート49:昭和18年7月「レンドバ島の攻防」

 6月16日の「ルンガ沖航空戦」で士官二人を失った204空は、しばらくひっそりしていた。その間にも連合軍は侵攻作戦を進めていた。日本軍側では連合軍にそれなりの損害を与えたので侵攻は8月と踏んでいた。しかし6月30日、連合軍はレンドバ島に上陸を開始し、次のステージに進むことになる。

 連合軍はガダルカナル島を奪取した後、2月にルッセル島を無血占領する。4月には飛行場を完成させ、侵攻拠点を一つ進めた。ここを拠点として、ニュージョージア島への侵攻は5月中句に予定された。しかし、同時期に欧州戦線でイタリアへの侵攻作戦の準備が始まり上陸作戦と船団護衛のために艦船や航空機が大量に回され、ニュージョージア島侵攻は6月30日に延期になった。連合軍の侵攻作戦は遅れていたにもかかわらず、それでも日本軍側の思惑よりも1月も早く進められていたのだ。

 それには、日本軍側の甘い戦況判断がある。一つ一つの作戦での敵航空機へ与えた損害が過大に報告されていた。アメリカ機が黒煙をはいて落ちていけば撃墜と報告されていたが、どっこいアメリカ軍の航空機はダメージに強く、黒煙をあげながらもしぶとく味方基地までたどりついていた。それに引き換え、日本軍機はガソリンタンクに防御がなく、被弾すれば爆発するか火炎をあげて落ちていく。日本機のように思っていては撃墜にはならないのだ。さらに潔く死ぬを良しとする日本軍の文化が、日本軍パイロットの払底につながってしまう。アメリカは、打たれても打たれても立ち上がるタフさを良しとする文化をもっている。しぶとく生き残ったアメリカのパイロットは経験を生かしたリーダーに育っていく。その差は大きい。

 また、アメリカの工業生産量の底力が発揮され続々と前線に武器や軍事物資を送り出してきたこともある。数ヶ月もかけてやっとの思いで人力で滑走路を作った日本軍の島嶼基地を、爆撃でたたき潰し上陸占領した後、ブルドーザーを使い3日で滑走路を作り直して自軍が使えるようにする。このような作戦が繰り返され、侵攻作戦は日本軍の想定するスピードをはるかに超えていく。

 レンドバ島の上陸作戦は、ニュージョージア島に侵攻するための第一歩だ。日本軍はこの時点では、ニージョージア島をガダルカナル島撤退後の防衛戦と考えていたため、ニュージョージア諸島をめぐる攻防戦は太平洋戦争全体でも大きな意味をもっていた。連合軍は、レンドバ島占領による作戦終了時期を7月4日と見込んでいた。

 6月30日の早朝、アメリカ軍は駆逐艦8隻と輸送艦6隻で上陸作戦を開始する。空母サラトガとヴィクトリアスの支援のもと5000名の海兵隊が上陸すると、南島方面部隊指揮官草鹿仁一中将は、直ちに、各部隊に攻撃命令を出した。しかし、日本側の海軍航空兵力は「い」号作戦後、航空機や人員の補充ができていなかった。南島方面の全部隊で稼働可能な零戦は約70機、艦爆約20機、陸攻約40機、陸上偵察機5機、水上機約40機という記録がある。レンドバ島の日本軍守備隊は120名であった。

 連合艦隊も南東方面艦隊に合流し、反撃を開始する。第二航空戦隊(隼鷹、龍鳳)から母艦航空部隊(零戦48機、九九式艦爆36機、九七式艦攻18機ほか数機)に出動命令がくだり、司令部もラバウルを経由してブインに進出した。204空も582空とともにその日のうちに午前、午後二回のレンドバ上陸軍への攻撃を行い、18機撃墜と不確実4機の戦果をあげている。この日の攻撃には204空からも12機が参加しているが、士官が一人もいなくなっていたため4月に赴任したばかりの渡辺秀夫上飛曹が指揮をとった。当時23歳の渡辺上飛曹は、士官に代わり隊を率いる力量をもった優秀な下士官であった。後日、杉田が撃墜され重傷を負った空戦時、同じく右目を撃ち抜かれ、顔の半分を吹き飛ばされながら基地に戻る勇猛果敢な闘志をもっていた。その敢闘に対して草鹿南東方面艦隊司令長官から軍刀を授与されている。

 この日は杉田は攻撃メンバーに入っていなかった。しかし、この日から7月にかけてレンドバ上空へ攻撃をしかける日々が続き、杉田もしばしば攻撃に参加することになる。

 6月30日はレンドバ上空で激しい空戦が終日繰り広げられ、両軍とも相当数の被害を出している。日本側の報告では、敵機48機を撃墜(内不確実8機)、損害は零戦13機、陸攻18機とある。アメリカ側では、日本機撃墜58機、被害は17機と報告されている。この日、敵機はレンドバ島以外にも基地のある島嶼(ソロモン諸島、ニューブリテン島、ニューアイルランド島)の各航空基地に終夜攻撃をしかけ、航空部隊を疲弊させた。そのため、翌7月1日には、基地航空部隊の全稼働機数が零戦35機、艦爆6機、陸攻10機、陸上偵察機2機まで減少してしまった。


 6 月30日のレンドバ島での攻防について、「ソロモン海『セ』号作戦」(種子島洋二、光人社)の中に、当時ソロモン諸島全般への補給を受け持っていた第一輸送隊長の種子島大尉の記述がある。ガノンガ島にいた種子島大尉が、二日後に司令部に赴いた時に戦況として聞いた話とされている。
 「六月三十日早朝、敵輪送船六隻、駆逐艦八隻、水雷艇十一隻がニュージョージア島南のレンドバ島沖にあらわれて、同島に五、六〇〇〇名の兵力を上陸させたが、敵の艦艇は強力な 無線電波を連続して発射して電波妨害をおこなったので、現地指揮官からの「敵来襲」の電報をラバウルの艦隊司令部は受信することができなかった。
 しかし、艦隊司令部が、妨害電波の方位を測定したところ、その方角に相当数の敵部隊が出現しているらしい様子を感じたので、偵察機をだしてたしかめた結果、はじめて米軍の上陸がわかった。
 わが艦隊は、ただちに六月三十日午後、一式陸上攻撃機二十五機をだして、敵艦船を雷撃にむかわせたがこれはまた、いったい、どうした事であろうか——その攻撃隊は敵の戦闘機というよりも、おもに敵艦船の対空砲火で十七機という多数が撃墜されて、一機が不時着大破し、わが方の戦果は、ほとんどなかったのである。
 また、米軍のこの上陸にさきだって、その日の午前零時過ぎにブイン前面のショートランド島は、約一五分間、米巡洋艦戦隊と駆逐隊から艦砲射撃をうけた。そのときショートランド湾内には、わが駆逐艦八隻が在泊していたので即刻、出港準備を完了して米艦隊を追擊しようとしたが、すでに敵は遠くへ去ったあとであった。
夜があければ敵機の待ち伏せに遭うことはまちがいないので、駆逐艦の出撃はさしとめられた。ところが、午前十時三十分に米軍機が大挙来襲して駆逐艦を爆撃し、一隻が被弾沈没したので、他の駆逐艦は急いで出港して、北方の海域に避退した。以上が、ブインの司令部で聞いた戦況である。」


 7月1日、アメリカ軍はレンドバ島に部隊や物資を揚陸作業を続けており、各基地航空部隊連合(零戦35機、艦爆6機)による攻撃が行われた。巡洋艦1隻、駆逐艦1隻撃沈、航空機27機を撃墜したと報告が記録されている。零戦5機、艦爆3機が未帰還となる。204空も参加している。

 7月2日、陸海軍航空機による協同作戦がスタートする。まず午前11時40分、零戦30機がレンドバを攻撃し、10機と交戦し9機撃墜(内不確実3機)する。引き続き、陸軍の九七式重爆撃機18機が一式戦闘機や三式戦闘機の援護の下に艦船を攻撃し、輸送船を1隻炎上させ、陸上にも攻撃をしかけた。戦闘機2機が未帰還となる。第二航空戦隊の『龍鳳』飛行隊(零戦31機、艦爆18機、艦攻12機)と第751航空隊の陸攻隊の一部がラバウルに進出する。アメリカ軍側はコロンバンガラ島とムンダ付近を爆撃する。夜間になって、軽巡洋艦『夕張』と駆逐艦6隻によるレンドバ島に上陸した連合軍への砲撃がなされる。

 この三日間でかなりの戦果をあげるが損失も多く、上陸阻止はできなかった。米軍は物量と機械力を駆使し、上陸開始後27時間で重砲の砲台を建設してムンダ方面への砲撃を開始している。

 7月4日、アメリカ軍はレンドバ島への輸送を増強する。日本軍側も陸海軍機合同で攻撃を行う。正午ごろ、零戦49機がレンドバ島上空でアメリカ軍機と交戦し、9機撃墜(内不確実2機)の報告がある。30分後、一式戦闘機に護衛された九七式重爆撃機17機がレンドバ島へ攻撃し、輸送船5隻を沈め、その他の艦船に被害を与えた。また、アメリカ機30機と交戦し14機を撃墜したと記録されている。しかし、損害も大きく、重爆撃機6機が自爆、2機不時着、戦闘機3機が未帰還となった。このため以後の陸軍機による攻撃は中止された。

 コロンバンガラ島で出撃を見上げていた海軍陸戦隊の中隊長、福山孝之氏の記録がある。
 「七月四日、陸軍爆撃機は戦闘機に掩護されてコロンバンガラ島上空にあらわれた。そして、南東方向にあるレンドバ島に向かったが、米機に捕まってみるみるうちに数機が炎上し、海上に墜落した。結局、爆撃機十七機のうちその八機を失った。掩護する味方戦闘機も陸海あわせて数十機いたが、この日、米国側はさらに多数の戦闘機を配していて、我が戦闘機の掩護が手薄になった隙をついて陸軍爆撃機を攻撃したのである。」

 このとき、海軍司令部と陸軍司令部で作戦会議が開かれるが、「レンドバ島に支援部隊を送れ」という陸軍の主張に対し、海軍は「ラバウルの航空部隊は消耗しており、艦隊は燃料不足で出撃できない」と返答する。立ち会っていた陸軍参謀が「コレ程迄海軍ノ力ガ低下シテ居ルカト云フ事ヲ痛感セリ」と記録している。陸軍(第八方面軍、今村均司令官)はレンドバ奪還をあきらめ、ムンダとコロンバンガラ島の確保に努めることにする。

 7月4日から酒巻部隊も基地航空隊と合流し戦闘に参加する。酒巻部隊とは新しく編成された第二航空戦隊で酒巻宗孝少将が司令官だったので、このように呼ばれた。第二航空戦隊は、空母『飛翔』と小型空母『龍鳳』を母艦としていたが、潜水艦による被害を受けて内地から出られず、6月下旬に飛行機隊だけがトラック島に進出していた。『機動部隊』(淵田美津雄、奥宮正武、朝日ソノラマ)に、次のような記述がある。

 「この日、酒巻部隊の戦闘機の一部は、早くもこの方面の戦闘に参加した。その後、同部隊は全機の進出を果たして、所在基地航空部隊とともに、優秀な米空軍に対し、連日連夜の激しい航空戦を繰り返した。初め主戦場はブインから約一三〇浬(直線でほぼ東京ー豊橋間)にあるレンドバ付近と、三〇〇浬(直線でほぼ東京ー岡山間)にあるガダルカナルだったが、落としても落としても、さらにそれ以上に増勢される米空軍に対し、劣勢なわが海軍航空部隊は、文字通り血みどろの戦闘を余儀なくされていた。そのころ米海軍は主用していたグラマンF4Fを新式のシコルスキーF4Uに、ついでグラマンF6Fへと順次に切り替えていたが、それでもわが戦闘機操縦者たちは、同数の敵機に対しては、まだ自信を失っていなかった。数の優勢を誇る敵に対する対策はただひとつ、手持ちの少数の戦闘機をつねに総動員して、できるだけ局所優勢を保つことだった。そのためには、操縦者たちは一日に二度も三度も飛び出さなければならない。だが、このような無理な戦いが、いつまでも続けられるはずはなかった。
 撃墜した敵の操縦者を尋問すると、彼らは一日おきか三日に一度の割合で攻撃に参加するのだという。合理的でしかも国力に恵まれた敵は、こうして、人員、機材とも十分な余裕をもち、堅実な戦をやっている。つねに最善の士気と健康状態を保って操縦者が戦えるように、万全の準備を進めている。航空戦はマス(量)である。小手先のわざで、一時はごまかすことはできても、とうてい長続きはしない。」

 7月5日未明、連合軍部隊がムンダの北北東にあるライス港に上陸を開始する。上陸を察知した日本軍は、零戦36機の護衛された艦爆7機による上陸地点への攻撃を
行う。そのとき約40機のアメリカ軍機と遭遇交戦し、10機を撃墜したと報告が記録されている。未帰還機は1機であった。

 日本軍側は対抗するためにコロンバンガラ島への補強を行う必要が生じてきた。第三水雷戦隊の駆逐艦10隻がコロンバンガラ島へ向かうが、クラ湾でアメリカの軽巡洋艦3隻と駆逐艦4隻に迎撃されてしまう(クラ湾夜戦)。日本海軍も軽巡洋艦ヘレナを撃沈し、駆逐艦による物資輸送は一応の成功をおさめるが、旗艦の「新月」が沈没、秋山司令官と司令部員は総員戦死してしまう。他に駆逐艦長月が沈没、多数の艦が損害を出した。

 この日は、204空も大忙しだった。零戦12機がラバウルから出動し、ブイン上空で陸軍航空機と合流し、レンドバ島へ攻撃している。また、ムンダ攻撃を行う艦爆隊の直掩にも零戦9機がブイン基地から出動している。留守になったラバウル基地にも敵機が現れ、零戦4機で迎撃に上がるが雲の中に逃げられる。大原亮治二飛曹が1番機で、杉田はこのとき4番機として搭乗している。夕方になってもブイン上空にB-24爆撃機が3機現れ、零戦4機で迎撃に上がり、相当の損害をあたえ1機は不時着確実と記録されている。

 7月6日午前中、杉田は八木隆次二飛曹とともにラバウルからブインに渡る。同じく6日の午前中にブインからコロンバンガラにいる駆逐艦『長月』の上空哨戒任務に204空の零戦12機が出動し、F4Uを2機撃墜、不確実1機と記録されている。この日の夕方、アメリカ軍の双発機3機(機種不明)とB-24 爆撃機が15機がブイン上空に現れ、零戦10機(3機編隊1、3機編隊2)で迎撃に上がる。杉田は、第二小隊2番機として出動する。「B-25爆撃機2機撃墜、B-24爆撃機1機に相当の損害与ふ。被害は着陸時に大破2機」の記録がある。

 7月7日、アメリカ軍地上部隊がレンドバ島とムンダの中間にあるルビアナ島にまで占領地区を拡大する。204空は、レンドバ島を攻撃する中攻隊の直掩で2小隊8機が護衛任務を命ぜられた。杉田は、第二小隊(小隊長、渡辺秀夫上飛曹)の3番機として出動する。レンドバ上空で75機の敵機と交戦、F4Uを6機撃墜(不確実1機)、被弾1の記録がされている。この頃の戦闘記録は、個人撃墜については全く記録されず隊としての撃墜記録だけとなっている。

  7月8日もブインからクラ湾の敵艦隊に攻撃する艦爆隊直掩に11機の零戦で任務につく。早朝5時45分にブインを出発し、攻撃は6時40分、7時40分にはブイン基地に戻っている。杉田は第3小隊の1番機(小隊長)として出動している。敵機と遭遇せず。

 7月9日は前日よりさらに朝早い時間、3時50分にブインを出発し、レンドバ島の敵大型大発(おそらく上陸用舟艇)への攻撃を行った。4時35分から攻撃を開始し、1隻炎上、1隻傾斜の戦果が報告されている。この日の編隊は2機1小隊という特別編成で3小隊6機で出動している。杉田は第1小隊(小隊長、日高初男飛曹長)の2番機として記録されている。この日、204空は別動隊としてラバウル基地から零戦6機が『神口丸』の上空哨戒任務についている。また、ブイン基地からも零戦4機が3直交代(4機編隊が2時間ごとに交代、述べ12機)で巡洋艦『鳥海』の上空哨戒任務を行っている。

 7月10日、レンドバ島攻撃に零戦4機編隊4小隊の16機で参加する。杉田は第4小隊3番機として出動。12時35分ブインを出発するが、天候が悪かったのであろうか14時に全機引き返している。しかし、アメリカ軍機はその間に約70機でムンダに来襲し、地上部隊を攻撃している。

 7月11日、午前中ブイン基地から中攻隊直掩で零戦4機編隊2小隊の8機が出動し、午後はムンダの敵陣地攻撃でやはり零戦4機編隊2小隊の8機が出動している。杉田は午後のムンダ攻撃に第1小隊(小隊長、日高初男飛曹長)の4番機として出動する。戦果報告に「直撃 効果大」と記録されている。

 7月12日、基地航空部隊がムンダとライス港の中間にあるエノガイ泊地へ爆撃を行なった。また、伊崎少将率いる第二水雷戦隊(旗艦『神通』)が輸送任務のため、軽巡1隻と駆逐艦9隻でコロンバンガラ島へ向かう。これを察知したアメリカ海軍およびニュージーランド海軍の巡洋艦部隊(軽巡3、駆逐艦10)との間で夜戦(夜間戦闘)が繰り広げられる。この海戦で日本軍は勝利し、輸送任務も達成する。しかし、旗艦『神通』が沈没、第二水雷戦隊司令部は伊崎少将を含め全員戦死する。(コロンバンガラ島沖夜戦)

 7月14日、ついにアメリカ軍はムンダ東方約5km地点に上陸を開始する。当日は
天候不良やその他の条件で航空部隊での支援はできなかった。レンドバ島での攻防戦は終わり、ニュージョージア島に戦線が移る。










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