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小田嶽夫の高田暮らし「濱谷浩との関係」

 元外交官で第2回芥川賞受賞作家の小田嶽夫(本名武夫)は明治33年、高田本町竪春日町(現上越市本町)の呉服商の家に生まれた。父熊吉も大きな呉服商の次男として生まれたが、三十四、五歳で部屋住みから三間間口の呉服卸商として独立している。母登美は直江津の重一屋という海鮮問屋の生まれで、初め大杉屋に嫁したがすぐに夫が亡くなったため、そこを実家として熊吉に嫁いできた。年子の兄、姉がいるが、かなりはなれて末子として小田嶽夫が生まれている。その間に亡くなっている子もいたという。熊吉は、独立してすぐに黄疸になり、静脈注射の失敗で亡くなってしまう。だから小田嶽夫はまったく父のことはわからないという。それでも2歳ごろまで子守りもいたし、4歳ごろまでは女中さんもいたので、それまでは家計ももっていたのだろう。母にはおもいきり甘やかされて育ったという。ずいぶん早熟だったらしく旧制高田中学のときには、やはり早熟な転校生とともにこっそりと芸者買いをしている。・・・(「人生をつくる」から)

「濱谷浩と北京の大宴」という小品がある。終戦前後に高田に疎開していた小田嶽夫と濱谷浩が同じ下宿(善導寺)に住んでいたことが記載されている。

「終戦少し前から後にかけ三年近くのあいだ彼は私と一つ屋根の下に住んだのである。新潟県高田市の善導寺内である。私は家族といっしょに庫裡の三部屋を、独身の濱谷は十畳の二階一間を借りて。
 彼がそこへ来たのは私より一年ぐらい後であった。はじめ親しい仲の市川信次を頼って東京から疎開し、しばらく市川の家にいたのであったが、やがてその寺に移ったのであった。しかし彼は寺に移ってからも食事は市川家で摂ることにし、朝夕2回、市川家との間を往復していたが、その際の足の速さは驚くべきものであった。寺と市川家との距離は普通の脚で十五分くらいの行程で、だから食事の時間をもふくめて、まず五十分から一時間はその往復にかかるわけでなのだが、いつも彼は今出かけたと思っているうちにもうその帰り姿を仁王門のかげにあらわしていたのである。
 それでも彼はその往復が億劫になったらしく、まもなく自炊をはじめた。私が行くと彼はよくその部屋で野菜を切っていたが、そんなときはいつも行儀よく座って、そして何かしら楽しそうにさえ見えた。魚は全然嫌いだそうで、だから腥いにおいが部屋に漂っていることはついぞなかった。においばかりでなく、いつも塵一つなく、部屋は清潔を極めていた。痩せた植物的な感じの人柄であったが、その彼と端正清潔な部屋とはいかにもぴったりしていた。なんとなく若き隠者という趣きがあった(写真家と隠者では、およそ裏腹の感がありことに、今の彼はだいぶ違うが、それでも隠者的な趣味が全然なくはないらしい)。」

 ここに出てくる濱谷浩は、世界的に有名になった写真家で戦前から高田や桑取を取材し、「雪国」という写真集を出していた。それまでは東京を題材としたモダンな写真を代表作としていたが、高田で過ごす時に、民俗学者で高田瞽女の研究でも知られている市川信次と出会ってから、作風が民俗学的に変わる。高田が気に入って戦前から戦後まで10年近く善導寺の下宿で過ごしている。この間、疎開してきていた堀口大学などと交流し、高田文化の興隆に立ち会うことになる。高田を離れ大磯に移ってから世界を旅しながら写真を発表し、世界最高峰の写真家に与えられるマスター・オブ・フォトグラフィー賞など数々の賞をとっている。ここでは、その濱谷の高田で過ごした若き日の姿を小田嶽夫は書いている。

 さて、小田嶽夫は写真を撮る濱谷について行って、その撮影風景を記録している
「私は彼の撮影する場面をどれだけ見たか知らないが、体が痩せて柔軟なせいもあろうが、必要に応じてそれがまるでとんぼ返りのように軽妙に動く。普通の人には上れないようなところへも、軽業師みたいに上ってしまう。写すことに憑かれて身の危険など忘れてしまうふうである。」

 濱谷はもともと肖像写真家でもあり、さまざまな文化人の肖像写真をとっているのだが、小田嶽夫の写真も撮っている。
「私が撮ってもらった数知れない私の像のうちで、私がとても好きで、彼も非常に気に入っているのが一枚ある。善導寺境内の夜の雪景のなかのものだが、左の端に桜の木の幹が半分ほど見え、その枝が上部五分の二ほどひろがって、それが真っ白く雪をつけている。下辺三分の一あまりが地上の雪で、あとの空間を埋めているのが、夜のまっ暗な闇である。その闇の中にも白い雪片が縞模様のように流れている。そういう中に私が、真ん中より少し右寄りに、黒い二重廻しを着、藁沓を履きひしゃげたソフトをかぶり、白い風呂敷に包んで一升瓶をかかえて立っているのである。闇の黒と、二重廻しの黒とで、二重奏のような調子が出、一升瓶を包んだ風呂敷の白がわずかな空間ながらくっきりきわだって、枝えだの雪、地面の雪の白によく張り合っている。

 そのとき、なにげなく撮ったふうに小田は思っていたのだが、のちに綿密な撮影計画があったことを知る。
この写真を私はただ偶然の所産だと思っていたのだったが、実際はそう簡単なものではないのだった。昭和二十五年に、彼はあるカメラ雑誌に載せた「肖像写真における個性表現の鍵」という文章の中で、この写真に触れて次のように述べている。
『私は小田さんのクローズアップを含め、計画した種々の場面で種々の動作をしてもらって撮影したが、最後に一枚、田舎町のやれ寺に疎開している特殊な生活環境にある小田さんをとる予定で、次のように撮影台本を書いていた。
 時 秋。空の明るさを残し、電柱の灯の感じる頃
 処 善導寺境内、山門と仁王門の中頃。杉並木を生かして。
 調度 酒の一升瓶一本。和服着流し。酒瓶を抱えて帰る後姿
 照明 閃光撮影。
しかし、この撮影計画が実行されないうちに、この年は早々と降雪を見てしまったので、この計画を雪中夜景で撮影撮影するように変更してしまった。撮影の日は前日に続いて粉雪、ぼたん雪、大小さまざまな雪がしきりにその風情を変えながら降り続いていたが、夜になって雪の降り具合のいい時期を見はからって私は撮影した。雪の種類と落下速度と方向と、マグネシュームの燃焼速度を同時に計算して写真効果を狙ったのである』」

濱谷浩は、綿密に計画をたててその一瞬をねらっていたのだ。おそるべし、プロの一枚。


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