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川崎 五式戦闘機 (1945)

 液冷エンジンの生産が間に合わず、エンジン待ち三式戦闘機がたくさんできてしまった。では、生産余力のある空冷エンジンをつけてみようということで作られたのが五式戦闘機。機体設計がよかったので、この移植は予想以上にうまくいった。戦争末期に本土防空戦で活躍した。

 もともとの三式戦闘機は、頑丈な機体で、高速・高高度に適した高アスペクト比の翼をもつ優秀な戦闘機であった。しかし、ダイムラーベンツDB601をライセンス生産した液冷エンジンを作るには日本の製造レベルが追い付かなかった。エンジンさえあれば戦闘機が作れる状態だったのだ。『世界の傑作機 川崎 五式戦闘機』(文林堂、1973)に元川崎航空機の発動機艤装課長の小口富夫氏が「三式戦から五式戦へ」という記事を載せている。最初は、同じDB601のライセンス生産品である海軍のアツタエンジンを載せようということになったらしい。エンジン自体はもともと同じ設計図で作られているので問題はない。しかし、パイピングなどのネジが海軍仕様と陸軍仕様ではまったく異なり、補器類も大幅な改修が必要であったため諦めたとあった。

 なんということだ。ここでも海軍と陸軍の確執が大きく影響していたのだ。日本海軍と日本陸軍は敵と戦う前に同じ日本軍同士で戦いあっていたのだ。そもそもDB601をライセンス契約するのだって日本海軍と日本陸軍で別々に行い、ドイツに不思議がれた経緯がある。機銃や機関砲も同じ20mmでも弾丸の互換性がない。海軍は機銃で、陸軍は機関砲と呼び方も違う。パイロットは、海軍は搭乗員で、陸軍では空中勤務者。海軍の戦車があり、陸軍の潜水艦があるしまつだ。中島飛行機では、陸軍向け飛行機工場と海軍向け飛行機工場と別々に稼働させていた。

 もっとも、アツタエンジンも生産遅延を生じ、このエンジンを積む彗星艦爆も空冷エンジン化されることになるのだが。

 ともあれ空冷エンジンを載せることになったが、大きさの違うエンジンから機体への胴体の空気の流れをどう整えるかに悩んだようだ。いくつかの案の中から、あまりおおきく構わず直線でつなげ、機体と翼のフィレットを大きくとって整える案になった。風洞実験で修正しながら安定した形にすんなりと落ち着いた。もともとの三式戦闘機の機体設計が良かったためであろう。それよりも夜もろくろく寝ないで突貫制作を行っていた昭和20年1月13日に東海地震が起き、肝を冷やしたという。幸いなことに甚大な被害はなく、2月に初飛行した。特に問題もなく、工場の滞留していた機体の改修が進められ、すぐに戦場に出されることになる。エンジンも安定しており、機体も軽くなったためバランスのとれた戦闘機になった。誉エンジンの調整で悩んだ『四式戦闘機疾風』よりも評価が高く、陸軍最優秀戦闘機と推す操縦者もいた。最終生産機数は約400機である。

「五式戦闘機」
全長 8.818m
全幅 12.00m
全備重量 3,470kg
発動機 ハ112(離昇1,500馬力)
最高速度 580km/h(高度6,000m)
航続距離 1,400km(過荷)
武装 20mm砲2、翼内12.7mm砲2 250kg爆弾2

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