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杉田庄一ノート50:昭和18年7月初旬「進藤三郎少佐着任・・・マラリヤに倒れる」

 士官搭乗員のいなくなった204空に士官が配置される。戦闘行動調書によると7月に入って越田喜佐久中尉と島田正男中尉が指揮をとっていることがわかる。中旬になると鈴木宇三郎中尉の名前も加わる。また、内地に帰っていた201空零戦隊約50機も戻ってきた。消耗の激しかった582空(艦爆と零戦の混成部隊)は解体となり、一部は内地へ帰還し、残りは201空と204空に編入されることになった。このとき582空の飛行隊長だった進藤三郎少佐が、204空に編入しそのまま飛行隊長となった。

 進藤三郎少佐は、日中戦争時に最初の零戦隊を率いて重慶攻撃に参加し、13機の零戦で30機以上の敵戦闘機と対戦、27機を撃墜し全機無事帰還するという快挙で知られていた。兵学校のときから、いずれ飛行機乗りになるからハンモックナンバーは気にしないと同期生127名中109番の成績で海軍での出世に関心を示さなかった。そのかわり、かなりやんちゃで下士官搭乗員たちにも慕われた親分肌の性格だった。真珠湾攻撃の時も空母『赤城』の士官搭乗員で第二次攻撃隊制空隊長として活躍している歴戦の強者だった。6月12日の「ソ」作戦の時、隊長として大群を率いて出発する勇姿を582空の守屋清主計中尉がシャッターに収めるエピソードは以前のnoteで引用している。宮野隊長亡き後、204空待望の隊長であった。

 しかし、これまでの戦闘で蓄積された疲労が肉体を弱らせていたのか、204空に着任してすぐにマラリアで倒れてしまう。一時は42度もの高熱が続き、意識不明の重篤な状態になってしまう。8月もほとんど病床にあり、9月15日付けで第二航空戦隊司令部附きとして転出することになる。

レンドバ攻防戦拡大

 進藤がマラリヤに倒れている間にもレンドバ攻防戦は続いていた。戦闘行動調書を見ると連日出撃が続いている。『ラバウル海軍航空隊』(奥宮正武、朝日ソノラマ)を参考に204空戦闘行動調書を照らし合わせてみる。

 7月15日、ムンダ方面の戦線が複雑になってきて敵味方の所在が識別困難になる。そのため、零戦44機、陸攻8機でルビアナ島の連合軍基地を攻撃した。「敵機約50機と交戦し、その19機(内不確実12機)を撃墜、わが方も零戦5機、陸攻5機を失う」とある。204空では、鈴木宇三郎中尉を中隊長として4機編隊3小隊の12機で参加している(途中1機が引き返している)。杉田は17日まで攻撃隊に入っていない。

 7月16日、ブカ基地は敵機63機に攻撃される。「この日から、敵機のソロモン群島のわが基地に対する攻撃が次第に激しくなってきたので、基地航空隊ではその要撃に忙殺されるようになっていた。これに対し、この日、陸攻5機がガダルカナルの夜間攻撃を行っている。」

 7月17日、ムンダ方面で激戦が行われる。「この日、敵機約120機がショートランドに、別に約170機がブインに来襲したので、零戦46機が後者を攻撃し、その58機(内不確実13機)を撃墜した。(米軍の記録によれば撃墜48機、被撃墜6)わが方の損害は自爆6機のほか、駆逐艦初雪がブイン沖で撃沈された」
 
204空では鈴木宇三郎中尉を中隊長として4機編隊3小隊、3機編隊2小隊の18機の零戦で参加した。この日の大空戦で、越田喜佐久中尉が未帰還自爆、竹澤秀也一飛曹も未帰還自爆と記録がある。戦果はSBDが1機、P-38が1機、協同撃墜3機、グラマン2機、F4Uが2機、協同撃墜1機、P-40が1機とされている。
 この日はラバウルからブインに日高初男飛曹長を中隊長として8機の零戦が移動している。おそらく次の日からの戦闘に備えるためだと思われる。この中に杉田の名前が入っている。

  7月18日、この日もブインに約150機が来襲し、40機の零戦が邀撃にあがる。204空は前日ブイン入りした8機の零戦も含めて18機が参加する。士官が入っておらず、日高初男飛曹長が中隊長となっている。杉田は、日高飛曹長の3番機としてついている。戦果は、グラマン8機、F4Uが3機、艦爆1機、協同撃墜2機と書かれ、中澤政一二飛曹未帰還、井上未男二飛曹自爆、大原亮二二飛曹被弾となっている。

 7月19日、コロンバンガラ島方面で行動中の駆逐艦夕暮と清波がベラ湾で敵の攻撃により沈没する。この日早朝、204空は3中隊27機でブイン上空を哨戒任務につくが敵は現れなかった。杉田は、日高初男飛曹長の3番機として任務についている。午後も4機1小隊は二直で上空哨戒にあたっている。

 7月20日、早朝4時ブインから4機編隊1小隊、2機編隊1小隊の6機の零戦が船団哨戒勤務についている。鈴木博上飛曹の3番機として杉田の名前が記録されている。5時25分同じくブインから別動隊23機の零戦が第7戦隊の上空任務に三直交代でついている。三直の終了は15時50分であった。この日は204空は総員出動のフル回転であったが、いずれも敵と遭遇しなかった。

 7月21日早朝、この日潜水母艦『日進』が、陸軍部隊を乗せて駆逐艦3隻に護衛されながらブインに向かっていた。204空では上空哨戒に7機(4機編隊1小隊、3機編隊1小隊)であたる。指揮官は渡辺秀夫飛曹長である。さらに、午後も南東方面軍航空隊の連合でレンドバ島への攻撃がなされた。『ラバウル海軍航空隊』(奥宮正武、朝日ソノラマ)では次のように記載されている。
 「基地航空部隊は零戦、艦爆計60機でレンドバの敵艦船を強襲し、駆逐艦1隻、輸送船中型1隻を撃沈し、その他の2隻を撃破したと報告したが、わが方も1機が自爆した」

 204空では、再び渡辺秀夫飛曹長を指揮官にして15機(4機編隊3小隊、3機小隊1編隊)が参加している。戦果は不明となっており、12機がショートランド島のバラレに帰着、3機がブインに帰着となっている。戦闘行動調書があいまいな記載になっていて、ラバレとなっていたり、戦果は一律不明とされていたり、この日の空戦は厳しかったものと思われる。交戦せる敵機種として、P-38、グラマン、ベルとなっている。杉田は、第2小隊3番機(小隊長、鈴木博上飛曹)として参加している。

 指揮官に下士官である渡辺秀夫飛曹長がつき、午前も午後も作戦に出なければならなかったことや4機編隊が組めなかったことなどから、204空全体として疲弊感が伝わってくる。戦闘行動調書も前述のように細かな記載がなされていない。

 7月22日も早朝のラバウル上空哨戒任務(7機)、午前中の『日進』上空哨戒任務(7機)、ブイン上空の敵追撃任務(11機)と204空は三中隊に分かれて行動している。杉田は、午後に行われたブイン上空での敵追撃に参加している。指揮官は、渡辺秀夫飛曹長。第2小隊3番機(小隊長、鈴木博上飛曹)である。敵発見ができず1時間後に帰着している。

 7月24日は8機が午前3時55分にブインを発進、4時20分から駆逐艦上空の哨戒任務についている。指揮官は、渡辺秀夫飛曹長。杉田は、第2小隊4番機(小隊長、鈴木博上飛曹)として参加している。この時期の駆逐艦による作戦行動が、早朝、明け方に行われていたことがわかる。敵、現れず。

 進藤少佐が病床にあるとき、204空が連日数度の出撃を繰り返し、かなり消耗していったことがわかる。7月後半は、下士官である日高初男飛曹長や渡辺秀夫飛曹長が指揮官として出撃している。再び士官不在状態になったと思われる。







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