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九三式中間練習機(1934)

「赤トンボ」と呼ばれた練習機。昭和10年以降、士官も兵も海軍の飛行機搭乗員は、皆この九三式式中間練習機で操縦訓練を行った。
 昭和5年に空技厰(海軍航空技術廠)で開発、初飛行した九一式中間練習機。要求性能はクリアしたが安定性が不足していた。そのためすぐに改修され九三式となって制式採用された。生産は、日本飛行機、渡辺飛行機、日立飛行機、富士飛行機、中島飛行機、三菱飛行機と多くの飛行機会社が行い、約5600機作られた。この生産機数は、零戦、隼につぐ三番目の多さだ。全体をオレンジ色で塗られていたため、「赤トンボ」と呼ばれるようになった。陸軍の『九五式練習機』も同様にオレンジ色に塗られていた。

 なんで「中間」なのかというと、『アブロ504初歩練習機』や『三年式陸上初歩練習機』などの初級の練習機と実際に戦闘や攻撃などを行う実用機の「中間」を埋める練習機という意味だ。実用機ほどの能力はないが、だれもが操縦できる初級練習機よりも高度な訓練飛行ができることが要求された。『九一式』は、練習機としては優秀すぎて操縦技術を必要としたため不採用となった。改良した『九三式』は、横への安定性を改良したが、実用機も二年の間に1000馬力級に格段と進歩し、要求する操縦技術も向上したため、「中間」練習機にもそれに準じて要求水準が高くなっていた。また、初歩練習機を使わず、最初からこの『九三式』で飛行練習をスタートするようになっていった。クセのない操縦特性から初級練習機として十分も機能したのだ。

 特筆すべきは、太平洋戦争も押し詰まってきた頃、アルコールでもエンジンが回ったため爆弾を積み特攻機に使われたことだ。若い搭乗員だけでなく、すでに飛ばす飛行機も無くなったため教員クラスの搭乗員による専門の部隊も作られ、実際に大きな戦果をあげている。鈍足を逆手にとり、海面スレスレで敵艦に近づくことができた。レーダーに引っかからない木製である。たとえ発見されて撃たれても、アメリカ軍のVF信管は反応しない。たとえ機体に被弾しても、布貼りなので通り抜けてしまう。操縦しているのは教員クラスのベテランなどなど、利点もあったのだ。

 多くの零戦搭乗員の手記に、この九三式中間練習機で練習をはじめたことが記載されている。いくつか紹介する。

 「筑波航空隊の教育は、初級操縦士を養成することであり、使用する飛行機は複葉の飛行機で九三式中間練習機といった。骨組みはほとんど木製で、一部に金属が使用されていた。
 胴体をはさんでいる二枚の上下翼は木の支柱で支え、鋼の帯線を張って固定されていた。胴体も翼も布貼りで、機体は実用機は銀色に、練習機は赤黄色に塗り分けされていたので、代名詞が赤トンボというのである。
 発動機も、プロペラシャフトを中心にして星形に組まれた星型エンジンが多く使われていた。
 初めの頃は、尾輪でなく、尾橇(そり)が使われていたが、主車輪にブレーキがつき、尾輪に改良されていった。尾橇当時、行き足が多すぎて何度も駐機の時に列線をはみ出した練習生が、見越し判断不良で免職になり、泣きながら原隊復帰した話を聞いた。」 ・・・『撃墜王の素顔』(杉野計雄、光人社)

 「千歳に到着したわれわれ操縦要員は、ついに練習機を使った訓練を受けることになった。千歳基地は当時、艦上爆撃機や攻撃機の基地だったが、広い敷地の一角で三百馬力の九三式中間練習機、『通称赤とんぼ』という複葉・固定脚の練習機を使って訓練が開始された。
 前年六月の体験飛行のときと同じように練習生は前、教員は後ろの操縦席に座った。『笠井練習生○○号、離着陸訓練同乗、出発しまーす!』と飛行隊長に申告してから飛行機に乗り込んだ。練習機には、前の席にも後ろの席にも同じ操縦桿、計器がついているから、教員が好きなように操縦できる。教員は後ろから『伝声管』を使って練習生に言葉で指示を出した。伝声管はだたの管だったが、発動機や風切り音のする上空でも教員の声がよく聞こえた。初めて操縦したときも、『第一旋回!』『第二旋回!』『第三旋回!』『第四旋回!』という後ろの教員の指示がよく聞こえたのをいまでもよく覚えている。
 1日に二、三回、練習機に乗っては離着陸訓練、二〇〇メートル上空での編隊訓練、宙返り訓練などをした。少しでも思いどおりに操作ができなかったときには、直径五センチていどの『指南棒』という樫の棒で後席から教員が頭をバーンと叩いてきた。よく叩かれる人の頭はこぶだらけになっていた。叩かれすぎた練習生の中には飛行帽の中に手拭いを仕込んで衝撃を和らげようとする者もいたが、叩いた感触で教員は見抜き、飛行機を降りてから、『貴様、帽子脱げ!』と命じた。中から手ぬぐいが出てくると、『貴様、こんなものいれやがってぇ』と結局、よけいに叩かれて悲惨だった。」・・・『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)

「最初の練習に使った飛行機は「九三式中型練習機」、通称「九三中練」、愛称「赤トンボ」の名で親しまれた複葉機(主翼がニ枚)である。
 二人乗りになっていて、前の席に練習生、うしろに教官が乗る。教官が扱うのと同じ操縦装置が練習生の席にもついている。
 私の先生は、中溝良一飛行兵曹長(飛兵長)だった。
 一日、生徒一人あたり大体十五分くらいずつ飛行練習をする。出来が悪いと、教官にうしろから棒でポカリと頭を叩かれる。
 この基本練習で大事なことは、自分の乗機の「水平の位置」を、つねにつかんでおくことである。旋回、宙返り、上昇、 下降・・・どんな動作をしても、水平の位置を知っておくことが基本になるから、まずこれを徹底的に教えられた。
 それから、一番緊張するのはやはり着陸のときだ。「九三中練」の操縦術教科書の「着陸」 について書いた本があったので読みかえしてみると、こう書いてある。
『・・・誘導方向旋回を終わり着陸点に向着せば、発動機回転を微速となし、計器気速を五十七ノットに調整す。
 ・・・その姿勢のまま、眼高七メートルに達せば発動機を全閉するとともに、 徐々に操縦桿を引きて機首をあげはじめ、機が地面に接触せんとするとき、操縦桿を後方いっぱいに操り、 両車輪と尾橇とが同時に軽く地に接するごとく着陸す」
なんともむずかしい表現だが、要するに、前の二つの車輪と、うしろの尾輪(または橇) のどれもが傾いたりしないで水平になって、ドンピシャリと着陸する形が一番よいとされていた。これを「三点着陸」という。
 海軍の飛行機は、動いている航空母艦の飛行甲板に着陸しなければならないことも当然あるので、とくにこうした正確な着陸が要求されたわけだ。
 とはいえ、着陸寸前のエンジン(発動機)の回転、速度、地面からの高さ、それに、そのときどきの風や天候の条件もあって、教科書に言うはやすく実際はむずかしいものだった。」・・・『帰ってきた紫電改』(宮崎勇、光人社) 

<K5Y>
全長 8.05m
全幅 10.99m
全備重量 1,500 kg
発動機 日立「天風一一型」空冷星型9気筒 340 hp × 1
最高速度 214 km/h
武装 7.7 mm固定機関銃 × 1   7.7 mm旋回機関銃 × 1
爆装 30 kg爆弾 × 2または10 kg爆弾 × 6

> 軍用機図譜




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