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杉田庄一ノート11:昭和18年4月18日〜海軍甲事件7(油断)

 第204海軍航空隊は苛烈な戦いを行ない、多くの戦死者を出したが戦後まで生き延びた関係者たちが「ラバウル空戦記」(204空戦史刊行会/編)を昭和51年に出版している。その後、朝日ソノラマ文庫から改訂版が出されている。山本五十六がラバウルを訪れる頃からの204空の動きをこの本から追ってみる。

「よもや!という油断は、日本側のだれにもあった。当時、山本長官の詳細な行動予定を読んだ前線指揮官の一人が幕僚に、『前線における長官の行動を、そんなに詳しく電報するのは危険ではないか』
と質したところ、
『暗号を解読される恐れはないから、絶対に心配はない』
と、にべもなく突っぱねられた。そこでこの指揮官は、山本長官にじかに中止を進言した。だが山本長官は、
『せっかくのご忠告はありがたいが、一度行くといって行かなければ、前線の将兵を失望させることになる』
と言って聞き入れなかったという。」

 しかし、長官巡視の無電が気にかかったのは一部の前線指撺官ばかりでなく、長官機護衛の任に選ばれた柳谷謙治飛長も、「三十分ないし四十分おきぐらいに、視察する基地の司令あてに、ひっきりなしに無電を打っていたのが、わたしの心に一抹の不安を抱かせた」と語っている。

 この前線指揮官というのは城島少将のことであろう。気になるのは、「三十分ないし四十分おきぐらいに、視察する基地の司令あてに、ひっきりなしに無電を打っていることだ。アメリカ側の資料を読むと、当初の無電連絡は解読できなかった部分がけっこうあった。少し前に、日本軍の暗号で使う乱数表がかえられたために完全に解読はできなかったのだ。しかし、頻繁に連絡が続くうちに、記号で示された地域や時間などがわかってくる。ニミッツに届けられた最初の暗号電には不正確な部分や穴があったが、最終決断を行い基地司令部に付した日本軍の解読電文はかなり正確なものにアップデートされていた。

 それにしても何度も暗号連絡を行った内容はどんなものだったのだろうか。ブインでは、誰が来るとまでは知らされていなかったが、直前に滑走路上のじゃまになる石を拾って整地をしている。事件後に緊急着陸した柳谷は、いつもは舞うはずの砂塵がなかったので散水をおこなったのではと感じている(実際は石を拾って整地しただけだった)。しかし、機密保持よりも「そそうのない接待」が優先されたようで、山本がそんなことで襲撃されるに至ったのであるとすると日本側のゆるみ、危機管理能力の乏しさを指摘されても仕方ないであろう。

 「当日の長官機の護衛について、その大役を仰せつかったニ〇四空司令杉本丑衛大佐(三月に前司令森田千里大佐と代わった)は、初め二十機の零戦を直援に付けることを進言した。海軍最高の指揮官であり、かつ日本の興亡をになう第一人者といっても過言ではない山本長官の援護とあれば、もっと多数の戦闘機を付けたかった。
 しかし、当時二〇四空にあった六〇機近い零戦のうち、使用に耐えるのは二十数機に過ぎず、しかも、病気、負傷、疲労などで、まともに飛べる搭乗員はわずか三五、六名しかいなかった。
 これより数日前、ラバウル空襲にやってきたアメリカの爆撃機と、迎撃に上がったわが零戦隊の一機が空中衝突し、落下さん降下した敵のパイロット一名を捕虜にしたことがあった。そのパイロットの言によると、
『前日、オーストラリアのシドニーからガダルカナル飛行場に送り出されてきたばかりだ。われわれは一週間交代で前線勤務につく。一週間が終わるとシドニーに戻り、十分な休暇がもらえる』
ということだった。
 これを聞いた柳谷飛長たちは、彼らに軽い羨望をおぼえ、
『われわれだったら連日、それこそ死ぬ瞬間まで休みなしにこき使われるのだ」
と、心の中でつぶやかずにはいられなかった。
 さらにそのパイロットは『前線にある米軍の飛行機はすべて完全に整備されており、一機残らず使用にたえるものである。』
とも、語ったが、絶対数が少ない上に、稼働率が一〇〇パーセント対五〇パーセント以下では、勢力の差が広がる一方だ。
 ガダルカナル戦の初めのころは、連合軍側もこうではなかったらしい。激戦と消耗の連続にパイロットたちは疲労し、士気の低下がいちじるしかった。これを見て交代制を実施したのは、アメリカ海軍のスプールアンス提督だった。
 いつ終わるとも知れない泥沼の戦いと、一週間で交代の当てのある場合とでは気持ちの上に大きな開きが出てくる。しかも体力の消耗の激しい空中戦闘では、休養十分の方が絶対有利だ。
 みじめなわが航空部隊の実状を知っていた山本長官は、杉本司令の申し出に対し、「二十機もいらない、六機でよろしい。自分の援護のために、大切な飛行機をそのように多数飛ばせる必要はない」とその進言を退けたという。
 杉本司令としては、長官の言葉にそむいてまでして、多くの戦闘機を護衛に付けることはできなかった。すでに暗号は解読されて長官の行動は敵側に筒抜け、しかも護衛戦闘機はわずか六機となってしまった。」

 『零戦体長 宮野善治郎の生涯』によれば、宮野が「稼働機全力、二十機での護衛を司令に進言し、司令から南東方面艦隊司令部を通じて連合艦隊司令部に上申した」といきさつがもう少し丁寧に書かれている。さらに、「第三艦隊司令長官・小澤治三郎中将と十一航戦司令官・城島高次少将などは、今回の視察には慎重な姿勢を見せ、もし長官が行かれるならば、母艦の戦闘機全機で護衛すると連合艦隊司令部に申し入れたと伝えられる。だが、連合艦隊司令部はその申し出を断わり、母艦部隊を十六日にはトラック島に帰してしまう。せっかくラバウルに進出していた五八二空の戦闘機十八機、同日ブインに帰す。五八二空角田飛曹長は、十八日に山本長官がブイン方面に行くことが決まっていながら、さしあたっての作戦もないのになぜ五八二空戦闘機隊が十六日にブインに変えされたのか、今もって腑に落ちないという。」
 という記述がある。この「連合艦隊司令部」という抽象的な言葉では、実質的な計画者だったという野村参謀なのか、それとも山本本人の意向が働いているのかはわからない。しかし、山本五十六の残した多くのエピソードから、華美な行動を嫌い質実剛健な生き方を自らに課していたことがわかる。「護衛は六機に」という強い山本の意思が働き、周りが折れたということが想像される。自身のもつ影響力を封じ込めて自分の生き方の美を貫いたのだろう。「山本」が生きていれば早期の講和が実現できたかどうかは分からないが「山本」という太平洋戦争における大きな歯車が壊れることになる。歴史上の「if」がここにある。

 さて、『ラバウル空戦機』では、山本が撃墜されたあとむなしくブイン基地に着陸する場面が描かれている。戦後まで生き残った柳谷飛長の証言と思われる。

 「長官機直掩の零戦隊は、守るべき主を失ってバラバラにブイン基地に着陸した。ところが、いつもなら着陸に際して巻き起こるひどい砂塵が全くない。連合艦隊司令長官を迎えるため、長い滑走路はすっかり清掃して水を打ってあったのだった。陸海軍の基地駐屯の司令や指揮官一同は、正装で飛行場に待っていた。
 着陸した搭乗員たちの元気のない、しかしショッキングな報告に、基地では大きな動揺が起きた。敵をショートランドのはずれまで追った柳谷飛長は、一番最後に着陸した。彼はまるで夢遊病者のようなうつろな表情で、よろよろと飛行機から降り立った。先に降りた搭乗員の報告だけでは、司令たちも信じられないらしく、柳谷を呼んでたずねた。
 『本当に、山本長官は戦死されたのか?』
 問いかける司令たちの顔色は蒼白だった。
 彼は、戦死した、とは明言できなかった。狼狽している司令たちに、これ以上打撃を与えて度を失わせるのは、見るに忍びない気持ちだったからだ。それに、直掩の六機がこうして無キズでいるのに、ぬけぬけと、ハイ、戦死されましたなどとは言えたものではなかった。
 『あれほどの大火災を起こしながらの不時着ですから、あるいは長官はご無事でないかも知れません。しかし、自分はそれを確認したわけではありませんから、断言することはできません』
 柳谷は婉曲に、言葉に含みを持たせて答えた。
 直掩隊の報告にもとづき、基地では早速救助隊が派遣されることになり、先に着陸した森崎中尉も一機を連れて、現場確認のために再び飛び立って行った。
 結果は予想されたとおりだった。海上に不時着した二番機の機長林浩一飛曹と、同情していた宇垣参謀長が生存のほかは、山本長官以下全員死亡だったことがあとになってから明らかとなった。
 やがて十二時、ずいぶん長い一日だったが、森崎中尉以下の直掩機六機は、ぎらぎらと輝く太陽を浴びながら、“ブイン街道”をラバウルへ向かった。のどかだった往路とは打って変わって、だれもが黙したまま沈痛な気持ちを抱いて、ただひたすら飛ぶだけだった。

 ブイン基地に水をうってあったというのは、他の証言から否定されているが、きれに掃除がされていたことは確かであろう。そそうがあってはならないと電報をうってしまっているくらいだから。ラバウルからブインまでは、制空権をもっているという油断があったのだ。

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