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杉田庄一ノート69 昭和19年10月内地で二週間

 「9月下旬のある日、菅野隊長から『俺は飛行機の補充のために空輸隊として内地に帰ることになった。笠井、お前も一緒に俺と帰れ』と言われ、間もなく数人の仲間と一緒に輸送機で群馬県太田市にある中島航空機の工場に出張することになった」

 『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)の中に菅野分隊の内地帰還の経緯が書かれている。9月に入って、ダバオ誤報事件やセブ島での地上撃破、さらに零戦による反跳攻撃訓練などで稼働する零戦がほとんどなくなってしまい、中島飛行長に説得されて帰ることになったことは、前回のnoteに記したとおりである。

 このとき杉田もいっしょに内地へ帰還している。当時、零戦は生産が間に合わず、定数がそろっている航空隊はなかった。そのため、中島航空機の生産工場(小泉航空機製作所)まで受け取りに出向き、完成するとともに受け取るというのが通例になっていた。工場近くでは受け取りに来た各航空隊の搭乗員が順番待ちをしているという状態だったのだ。

 零戦は、三菱航空機で設計開発されたのだが、戦時体制ということで巨大な工場をもつ中島航空機でも生産を行なった。新型機の開発に追われた三菱航空機よりも中島航空機で作られた零戦の方が多い。同じ設計図ではあるが、三菱製と中島製では微妙に違っていた。ベテラン工員がつぎつぎと徴兵されてしまい、かわりに勤労動員のかかった中学生や女子学生が製造ラインについた。不慣れな作業のため製作スピードは落ちた。また、原材料がとどこおったり、工作機械の品質が悪かったりで、製造品質の低下がひどかった。

 菅野大尉は、できあがった零戦をすべて自分でテストし、不具合な箇所を細かく注文をつけて修理依頼を行ったが、なかなか作業がすすまなかった。あるとき、テスト待ちで整備中の飛行機がずらりと並んでいて、その翼の下で工員たちが座ってのんびり雑談していた。これを見た菅野大尉は怒りを爆発させて、笠井氏らに「おい、お前らそこらの松の木の棒きれを拾ってこい!」と命令する。棒をわたすと、
「貴様ら、何をしてるんだ。どいつもこいつもさぼりやがって。戦地でどんな戦争しているか知っているのか!根性を叩き直してやる!」と言って、座っている工員たちを片っ端から殴った。行員はあわてて「ちょっと、待ってくれ。仕事をしたくてもエンジンが来てないんだ。だから組み立てができないんだ。」と説明する。しかし、菅野大尉は「だったらそこらへんを掃除してろ!」とさらに棒でなぐりかかった。笠井氏は「恐ろしい隊長だぁ」と肝を冷やした。

 エンジンがやってきて、最終組立が終わるとまずは中島航空機のテストパイロットが地上で試運転を行い、受領者の最終チェックをうけるが、あちこちに不具合がある、エンジンの調子も悪い、となかなか完成機として受領できなかった。不具合の調整を行い、隊員が高度3000mまでの試験飛行を終えて菅野大尉に報告して受領となるが、1日に1機できるかできないかというペースで、予定数まで達しない。今日も1機だけだった・・・と、夕方になると宿舎の中島航空機の産業報國会館別館に戻るという日々を過ごす。台風がきて飛行できない日、酒もタバコもなくなり、笠井氏は菅野隊長からお使いを頼まれる。

 「笠井、お前はドンガラ(体)が大きいから、横須賀まで行ってくれ」
 「隊長、なんでですか」
 「酒保物品のタバコや酒とかをもらいに行ってくれ。わしが証明書を書くから、それ(証明書)をもって行ってくれ」

 笠井氏ら3人が横須賀の軍需部へ出向き、証明書を渡すとその場で山ほど渡されて驚く。一般人には日用品も配給になっていた昭和19年の秋にである。サントリーの角瓶や虎屋の丸羊羹などをもって戻ると菅野大尉もようやく上機嫌になり、「お前らも好きなだけ飲め!」とふるまわれる。宿舎の寮母さんの手料理を肴に、笠井氏ははじめてウィスキーを飲む。あるときは「外出するぞ!」と、笠井氏らを外に連れ出し、「遊んでいけ」と言い残し自分は宿舎に戻るようなこともあった。ある晩、「お前らなあ、日本はいま、非常に危険な状態になっとる。だから、俺らがよっぽど頑張らないといかん。フィリピンでは、零戦に二十五番(250キロ爆弾)を吊って敵艦に体当たりする戦法もこれからできるらしい。もしもお前らと一緒にフィリピンにもどって、俺がその命令を受けたら、おい笠井、お前もつれていくからな。それでもいいか」と笠井氏は菅野大尉に唐突に言われたことがあった。おそらくフィリピンでの神風特攻隊編成計画の情報を独自につかんでいたのだろう。受け取る飛行機がない、満足な飛行機ができてこない、菅野大尉の苛立ちがおさまらない日々を過ごすことになる。

 ある日、角田中学校時代からの旧友の伊藤敏雄氏が菅野大尉を訪ねてくる。菅野大尉は軍の急用で九州に出向いており不在だったが、杉田が代わって出迎えるように言いつかっていた。菅野大尉は、飛行学生を卒業してから一度も帰省していなかったが、群馬県太田にいることだけは実家や旧友に告げていたので、東北大学金属材料研究所に勤めている伊藤氏がわざわざ訪ねてきたのだ。伊藤氏は前年にも厚木航空隊に所属していた菅野大尉を訪ねたことがあり、本音で語れる菅野大尉の旧友だった。せっかく訪ねてくれたのに自分は九州に飛ばねばならなかった菅野大尉は、宿舎の手配をし、一番の部下である杉田を呼んで丁寧に接待するように言いつける。杉田にとって菅野大尉はすでに兄のような関係であった。菅野大尉の悪口でも聞こうものなら、即座に殴りかかるくらいの入れ込みようだった。杉田は、伊藤氏に菅野隊長の活躍ぶりを細かく話した。
 「とにかく、勇敢というか無茶というか、私もびっくりしているんです。なにしろ敵機に体当たりして行くんですから・・・」
 そういう自分だって、初陣のときに体当たりでB17を墜としているのを棚にあげて、杉田は菅野隊長の自慢話を伊藤に話している。

 杉田は、初戦から大型機への攻撃のコツのようなものをつかんだようで、ラバウルの空戦では大型機を何機か墜としている。笠井氏たちへの訓練時にも「もっと接近しないと自分がヤラれる」とキツく指導している。菅野大尉のB-24への直上方攻撃法も、猛烈果敢な二人のイキがあって開発されたものであろう。

 菅野大尉は、ただ待っているだけでは気が済まぬと、待っている間にあちこちの基地にいる同期をテスト飛行をかねて訪ね、大型機への直上方攻撃を伝授してまわっていた。また、菅野大尉を訪ねて母と妹が太田に来たことがあり、飛行機に乗るところをみたいと妹に言われた。「忙しくてそんな暇はない」と菅野は断った。次の日、宮城に帰るために太田駅から汽車に乗ってしばらくすると、菅野大尉が零戦で飛んできて宙返りや曲技飛行を行い、最後は顔が見えるくらいの低空飛行で手を振ってみせた。

 10月22日、新しい零戦16機がそろい、太田から鈴鹿、沖縄の小緑(那覇空港)、台湾の新竹を経て、フィリピンに戻ることなる。沖縄につくと台風に足止めをくらい待機することになる(もし、この待機がなかったら最初の特攻隊編成時に間に合って出撃することになっただろう)。26日にようやく出発することができ、台湾の新竹に着く。台湾からフィリピンまでは5時間かかる。笠井氏は、乗りっぱなしの5時間は、落下傘を座布団がわりに敷いていても尻は痛くなるし、汗はだらだら流れるし、苦しかったと書いている。ようやくフィリピンに着き、マバラカット西飛行場に着陸して、16機が列線をとって並び、天幕の戦闘指揮所に報告に行くと飛行場を間違えていたことがわかり、司令の中佐に怒られる。

「貴様らなにしにきたんじゃ。ここは貴様らの来る基地とちがう。ここはバンバン飛行場だ。内地から戦地に来るのに、自分がどの基地に行ったらいいのかわからんのか!たるんどる!そんなことで戦に勝てると思っているのか!マバラカットは向こうじゃ!」と、南方を指差しながら司令は菅野大尉を頭ごなしに怒鳴った。・・・『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)

 ひどく叱られた菅野大尉はふくれっ面になった。このままではすまない、なにかやるぞ・・・杉田や笠井氏らには以心伝心で伝わっていた。菅野大尉は、列線にならんだ零戦を全機、指揮所のほうに後ろを向けさせ、エンジン全開の合図を出す。轟音と共に凄まじいプロペラ後流で天幕は吹き飛び、基地が大騒ぎになるのを尻目に「さあ、行くぞ」と順次離陸した。それから10分ほどで、草原に吹き流しだけのマバラカット西飛行場に到着する。明るくお茶目な菅野大尉の一幕であった。


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