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杉田庄一ノート86 昭和16年11月29日〜17年3月31日「大分海軍航空隊」

 昭和16年11月29日、筑波海軍航空隊での操縦練習課程を修了し、大分海軍航空隊に配属された。大分航空隊は海軍唯一の戦闘機訓練専門の練習航空隊である。丙飛3期だけでなく、海兵67期、甲飛5期、乙飛10期の各戦闘機搭乗員と海兵67期艦上攻撃機搭乗員が同時期に訓練をしていた。

 訓練に使われた飛行機は、中島三式艦上戦闘機、中島九〇式艦上戦闘機、中島九五式艦上戦闘機、三菱九六式艦上戦闘機である。九六式もまだ現役で前線配備されていた時代で、最新鋭の零戦はまだ練習航空隊には配置されていなかった。もっぱら九五式で空戦や夜間飛行、特殊飛行などの訓練が行われ、仕上げとして九六式が使われた。

96艦戦

> 三菱九六式艦上戦闘機 A5M1(1935)

 当時、杉田といっしょに予科連生、操縦訓練生、大分空を過ごした杉野計雄氏は、『撃墜王の素顔』(杉野計雄、光人社)の中で、このときの射撃訓練の様子を記述している。
 「戦闘機乗りは、何といっても射撃が第一の技術である。弾丸が当たらなければ敵は墜とせないから、だれしも真剣なのである。
 射撃は機体に固定して取り付けた機関銃(砲)で、照準器にうまく敵機が入るように狙って発射すれば命中するわけである。
 だが、実際にはそう簡単ではない。銃口と目標の距離や彼我の飛行機の辷り、風、射角などに加えて気象条件などの要素も正確に合致しないと、飛行中の射弾は命中しない。だから、銃口を目標に近づけて射撃しない限り全弾命中はないのである。
 射撃の名人は、いかに安全に敵に接近できるかで決まるのである。それはわかっていても、簡単にできるものではない。経験を積み重ねてこそ極意がつかめるのである。
 練習航空隊の射撃標的は、長さ五メートルの麻布製の袋型の吹き流しを使用したが、実施部隊では三メールの長さの小型になる。しかし、練習生の場合は、長さも太さも大きい曳的でも、なかなか命中弾を得ることが困難である。
 射撃は最初、数回は実弾ではなく写真射撃が実施され、実弾射撃に進むのである。弾丸と同じ早さでシャッターが落ちて的が写るので、後でフィルムを現像し、スクリーンに映写すると、射距離、角度、軸線などが判定され、それによって教官が一人一人に注意指導を行なう。
 注意されたからといって、技倆未熟の練習生が、「はい、それでは」と簡単に修正できるものではない。少しでも進歩があれば、まあまあといえる。」
・・・・・・
 「その夜、当直だった吉田教員が夜の温習(勉強)時間、教室に回って来て、私に、『明日は吹き流しにぶつかる気持ちで接近し、撃ってみよ。そうだな、今日、退避操作をはじめた距離から一呼吸して、発射ボタンを押しても十分だ』と教えてくれた。
 翌日の射撃で、私は発射ボタンを押すのを、まだまだまだと我慢して射撃をした。カチカチとシャッターの落ちる音がしたが、吹き流しが急に近くなったので、急ぎ機首を押さえた。
 だが、五メートルの吹き流しをかわし切れず、尾部にプロペラが触れたらパンと大音響がした。上を見上げたら、吹き流しのない曳索がピンピンと尾を振っていた。
 大音響がしたので衝突したことが分かった。吹き流しにペラが接触したのだ。この日、これは叱られるなと思いながら指揮所に報告したら、分隊長が、
『体当たりは自分も命がなくならないのでやらないことだよ』
 叱られるかと思ったが、笑っておられた。しかし、自分の教員からは叱られるだろうと思いながら報告すると、あれでよいと同じように笑っていた。」

 杉野氏は、このあと終戦までに100回以上の空戦を経て32機の撃墜を行い、日本の撃墜王としてランクされている。杉田も敵機に猛接近、一撃して飛び去るという空戦スタイルを初陣から貫いている。前回のnoteでとりあげたように、杉田もこのとき同じ訓練をいっしょに受けていたのだが、初陣でB17に猛接近しすぎて体当たりしてしまうエピソードをもっている。杉野氏も杉田も操練時代に同じ教員(中島隆三等航空兵曹)から薫陶を得ている。もう一人、谷水竹雄氏も32機の撃墜をしており、6人の教え子から、杉野、谷水、杉田と3人の撃墜王を出している中島教員にちょっと関心がわく。

 昭和17年が明けたばかり、まだ日本軍が快進撃をしている時期で、訓練の合間に別府温泉に外出したり、花見をおこなったりと訓練生にもわずかながら余裕があった。3月31日、戦闘機課程訓練を卒業し、海軍二等飛行兵(転科)という辞令をもらった。一週間後の4月6日、第6海軍航空隊配属の辞令をもらう。


 


 

 













 大分海軍航空隊は大分市の東方大分川の三角州にあり、北側は海に面していた。現在は、大洲総合運動公園となっている。昭和19年には、特攻の前線基地になり練習航空隊は解散した。終戦直後、宇垣纏司令長官が部下を引き連れて11機で特攻出撃した地として公園内に慰霊碑がたっている。


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