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杉田庄一物語その37(修正版) 第五部「最前線基地ブイン」小福田飛行隊長と宮野分隊長

 基地の周りに監視情報網も設置されておらず、敵襲には応急で設置した望楼からの見張りだけで対処するしかなく、それも上空にやってきてようやく敵襲に気付く程度のものだった。
 しかし、毎日必ずB17爆撃機による爆撃が不定期な時間にあった。そして音のする爆弾(音響爆弾)を落としていく。それも時限爆弾になっていて、いつ爆発するかわからないので、常に緊張感と不安を強いられることになる。

 「指揮官空戦記」(小福田皓文、光人社)に次のような記述がある。

「夜になると、今度は敵の爆撃機が八時か九時ごろから爆撃にやってくるようになった。それもせいぜい一機か二機で、私たちの頭上高く旋回しながら、思い出したようにポツン、ポツンと、爆弾を投下する。そして、約一時間ぐらいねばって帰っていく。すると、またつぎのやつが、交代で頭上にやってきて、同じようなことをつづける。
 宿舎地帯は沼地のそばで、防空壕もつくれないので、私たちは天幕の中のケンバスの軽便寝台に寝ていた。ドシーンドシーンと、爆弾の地ひびきが聞こえるたびに、まさか、おれには爆弾も命中することはあるまい、という信念のようなものを抱いて寝るのである。敵は私たちを一晩中ねむらせない一種の神経戦のつもりらしい。
 こちらには高射砲や対空機銃があるのに、いっこうに敵に向かって撃とうとしない。
『どうして撃たないんだ?』と、聞くと、
『闇夜に鉄砲、撃っても当たらないし、第一、弾がとどかないんだ。効果がないとわかっている弾を撃って、逆に、こちらの高射砲陣地を見つけられて、爆撃されてはそれこそ馬鹿を見る・・・』
 なるほどと、妙なところで感心したものだが、それにしても、なにか釈然としない気持ちである。敵のねらい通り、私たちは、いつも睡眠不足に悩まされた。」

「指揮官空戦記」(小福田皓文、光人社)

 小福田は、昼間の敵襲に備えて滑走路に三機ないしは六機をスクランブル待機させる哨戒を当直制で行うことにした。当直の搭乗員たちは椰子林の中のテントでトランプをしていると、見張り員の「敵襲」の声でそれっと零戦に乗って発進する。早い者順で近くの零戦に飛び乗ることになっていた。

 ある日のこと、小福田も当直ではないがこのスクランブル発進に参加した。八十メートルほど先にエンジンの回っている零戦を見つけると、若いものに負けじとすぐに飛び乗って発進した。整備員が何かを叫んでいたがエンジン音で聞き取れないまま離陸した。現れたのは、はじめて見るロッキードP38戦闘機だった。小福田は落ち着いて敵の背後に回り込んでから機銃を発射しようとしたが、弾丸が出ない。いったん急上昇して第二撃、やはり弾丸が出ない。二機だったP38が四機に増えたので、形勢不利とみて基地にもどった。

「おい、弾が出なかったぞ。いったいどうなっているんだ」
と、カンカンになって機銃責任者を呼びつけると
「この飛行機はエンジンを乗せ替えたばかりで試運転中だったんです。だからあのとき機銃に弾丸が入っていませんと申し上げたんですが」
と、返事がかえってきた。

「指揮官空戦記」(小福田皓文、光人社

 小福田飛行隊長や宮野分隊長は、若手を鍛えるのに基地上空哨戒任務を積極的に活用した。まだ、ガダルカナル島の戦場に連れて行くには早すぎる。ベテランだってガダルカナル島への攻撃任務は毎回危うい。実戦の場数を踏ませ、身体で空戦を覚えさせることが重要と考えていた。
「初陣に生き延びると、あと半年は生き永らえる」・・・戦闘機での戦いは、初陣にかかっている。これは第一次大戦ではじめて飛行機による空戦が行われてから国や戦場は変われど定説である。

 生死をかけた空戦で最初に撃墜されなければ、次回も生き残る可能性が飛躍的に高くなる。三度、四度と空戦を重ねるたびにその経験値が生き残る確率を上げていくのだ。逆説的に言えば、最初の空戦時に餌食になるパイロットがそれだけ多いということである。

 六空の大半は「ひよっこ」だった。長距離を遠征して戦いの場を経験させるにはあまりに危険だった。基地上空哨戒任務であれば敵と空戦し、たとえ被弾してもその場に降りれば基地がある。小福田や宮野は、「ひよっこ」をまずはこの哨戒任務で慣れさせ、順次ガダルカナル島への遠征に連れて行くという作戦をたてた。小福田と宮野はタイプは違うが、戦闘機パイロットとして優秀であるだけでなく、率先垂範を励行し、部下に慕われる人格者でもあった。「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社)から引用する。

 二〇四空の士気の高さは、小福田少佐と宮野大尉、二人の指揮官の人柄と率先垂範の姿勢によるものも大きい。
 小福田は、まず部下ありきの考え方に徹していた。司令部からの指示よりも、いかに部下を大切にして有効に戦わせるかの方を優先していた。しかも、ふつう、少佐の飛行隊長ともなると、大きな作戦を指揮して出撃することはあっても、上空哨戒や邀撃戦に上がることは、あまりなかったが、小福田はどんな作戦でも率先して飛び上がっていった。小福田が宮野に、「おい分隊長、今度は俺が行くぞ、君は休めよ」……などと言うのを、部下はしょっちゅう耳にしている。

「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社)

 宮野を物語るエピソードをもう一つ引用する。敵機が来た時のスクランブル発進についてのエピソードである。

「列機として分隊長に駆け足で負けるわけにいかないと思って、百メートル競争のような全力疾走で宮野大尉を追い越しました。必死で走りましたよ・・・・。追い越したところで、宮野大尉が『こら、大原。息切れして飛行機に乗ったら駄目だぞ!』と、走りながら声をかけてくれました。『ハイ!』と右手を上げて、そのまま飛び上がりましたが、息が上がって見張りをおろそかにするなよ、というような意味合いだったんでしょう。言葉は荒っぽくても、そのひと言には実に思いやりがこもってました」(大原談)

「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社)



 このようなスクランブル発進を若手の六空隊員たちは日常化して身に付けていった。スクランブル発進は、待機中から飛行機の状態を最善に保っておかなければならない。飛行機に早く乗るためのダッシュ力も重要である。なかには、ふんどし一丁で涼んでいてそのまま飛行服をつけないで飛び上がったという猛者もいたという。

 ブイン基地では士官宿舎と搭乗員宿舎は五十メートルほどしか離れていない。戦闘があったようなとき、宮野は従兵にビールをかつがせて搭乗員の宿舎にやってきて、下士官兵たちの輪に入っていった。戦闘がうまくいかなかったときは励まし、反省会をおこなって明日の戦闘に備えた。厳しく叱ることはあっても感情で怒ることはなく、兄のように振る舞った。常に率先垂範で、空戦のときも高所から全体を見るようなことはせず、俺について来いという指揮官先頭の戦いを行った。部下たちと信頼で結ばれており、上司の指示だからではなく宮野の指示だからという気持ちになって部下たちは戦った。そのような宮野の生き様を「ひよっこ」の若手搭乗員たちは自らの生き方に投影していった。

 率先垂範、実戦的指導、空戦後のブリーフィング、部下を殴らず信頼関係を築くなど宮野の影響を受けた若手搭乗員たちは、のちに自分が下士官になると同じような行動をとった。杉田も影響を受けた一人である。

 後に、杉田もベテランとして新たな「ひよっこ」を前にしたとき、宮野と同じ振る舞いをしている。「愛する列機、俺についてこい」という言葉がけ、訓話よりも実機での実戦的な指導、ビンタではなく「まあ、飲め」というコミュニケーション、杉田のことを語る後輩の言葉は、そのまま宮野が部下へ接した姿勢そのものであることに気付く。杉田は宮野から戦闘の仕方を学んだだけでなく、人格を学んでいた。

 宮野は少しずつ戦闘に慣れたものから、ガダルカナル島方面への遠征に参加させていった。ガダルカナル島への遠征攻撃は、ベテランたちが中心に行なっていたがますます激しい消耗戦になっていた。

<引用・参考>


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