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いつもありがとう。

例えば、とても簡単なお願いをされたとする。
紙を切っておいてとか、水を汲んでおいてとか
私はそうゆう時にとても困ってしまう。

イメージと違っていたらどうしようとか
つまらないことをこうぐるぐると考え込んで
結局手が付けられなくて、
自分の出来なさになんだか悲しくなってしまう。

割と器用な方ではあると思うけれど、
とても簡単な依頼だったり
普通の人だったら…ということが
できない時がある。

小学2年生の頃に国語の授業で
クラス全員と先生を敵に回して
討論したことがあった。

ある物語を読んで「この街に人はいるか。」
という問いだったと思うけれど、
どこを探しても明記された文章はなく
絶対に人がいないという判断材料がない。

けれど全員が、街に人はいない方に手をあげた。

私がええっ?!何事?!と思っている間に
1人だけ手を上げてないのが見つかって
なぜなのか、と立たされてしまった。

私は思い切って話してみた。
明記されていないことに、なぜ絶対という確信を持てるのかと…。

先生はあーだこーだ言っていたけれど
私はその説明に少しも納得できず、
最終的には「作者はそう書いたと先生の教科書には書いてありますから、この街に人はいないのです。」と言われてしまった。

(思えば、「この時の主人公の感情は。」
みたいな問いも、ものすごく嫌いだった。
一度命を吹き込んだ主人公には自我が芽生えると思っていたからかもしれない。
作者がこうだからと言ってそれが正解とも限らないと思っていた…。)


この一件をこうして語ることができるくらい
とても鮮明に覚えている。
先生なのに教科書に書いてあることしか教えられないのかとか、かっこわるい大人だな。とか思った気がする。

それで私は、かっこいい大人に
というか自分で答えを出せる人になろうとした。

いつしかその目標は
なんでもできる人に変わって、
本当に大体のことは何度か教えてもらえれば
あとは自分で出来るようになってしまった。

納得いくところまで突き詰められるようになると、周りの人たちも私に期待するようになってしまった。

お願いを期待以上にこなしてくれる子。

それを最近までうまくやっていたけれど
とても疲れてしまって嫌になってしまった。

期待に応える、自分の納得いくまでやるのは
完璧主義者だからだと思い込んでいたけれど、
ああこれは完璧主義なのではなくて
人の期待に真面目に応えすぎているんだと
やっと分かった。

それに気づいたら、急に肩の荷が降りて
人に弱さを見せたり、出来ない所を見られたりするのが前ほど恥ずかしくなくなって、
むしろ私の穴を見せるから埋めてくれない?と
言えるようになった。

完璧主義だから〜とか言って
かっこつけていたんだな。
本当は何も出来ないことを知られたら
みんな離れていくんじゃないかとか
愛想尽かされてしまうんじゃないかとか
勝手に不安になっていただけだった。

不完全な私でも愛してくれる人たちに
出会えてから気づけたな。よかった。
これを読んでくれたあなたも
その1人になってくれているかもしれない。

いつもありがとう。
これからもよろしくね。

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