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OSHOの特異なアプローチ

OSHOは複合的に答えを導き出す。核心の問題だけではなく、他の問題点も同時進行で浮上するようなアプローチだ。私のその他の出来事も更に深く眠っている場合、(私の場合、ほとんどがそうだが・・・)メインの問題と共に他の問題点も浮上させられていく。恐らく同時に出てきた問題も今しかない、というタイミングで出てきたのだろう。それらを同時に刈り取らされるのだ。面と向かい合わされるのだ。
複数の問題を一挙に見せられると、叫び出したい時もあるが、OSHOはそんな時でも、決して手をゆるめる事はない、私がそれと応対するまで。

大きくジャンプをさせられるが、意味もなく傷つけるような出来事をOSHOから受けた事はない。
ただ気づきを伴うような大きな跳躍をさせられるのだ。だがその深い所に何か、OSHOの愛としか呼べないようなものが見え隠れしているのを感じるのだ。
だが中途半端ではなく、覚悟は必要だ。

OSHOのアプローチ方法というのは、現在を飛び越えて、30年後の私でないと分らないというのもあった。そして、そのメッセージは、30年前の私にはわかるはずもなく、ただ、そのアプローチは、とても特殊な為、忘れる事ができないのだ。何年たっても・・・。
最も奇異に飛んだOSHOとの出来事といえば、OSHOが亡くなって7日目の事だった。「7」という数字には何か宗教的な意味合いがあるのだろうか?初七日という言葉もあるが、OSHOが肉体を離れて7日目の出来事というのは忘れる事が出来ないでいる。その日、私は不思議な夢?いや、あの出来事は決して夢ではない、朝の5時位、早朝の事だった。
その時期、私がそんな早い時間に起きる事は、まずなかった。
突然、目が覚めて、異変を感じてアパートのクリーム色の部屋の壁を見渡すと、壁がスクリーンになって目の前に、ある映像が映し出されていた。その情景に息を飲んだ。

白装束の5人位の男たちが棺(ひつぎ)を担いでいた。
いつもは寝ぼけている私だが、その時は、あの男達が担いでいる棺にはOSHOの役目を終えた  肉体が安置されていると、気がついた。海岸線に向かって、白装束の男達がOSHOを乗せた棺を運んでいた・・・そこから映像は始まっていた。

突然の映像に、私の人生にこんな事が起こるんだろうかと、魔法でもかけられたんじゃないかと、疑いが頭をもたげたが、疑うより何より進行している映像に、くぎ付けになってしまった。

OSHOが運ばれていく棺を、私は泣きながら見ていた。心の中で「OSHO!」と叫んでいた。
・・・・と、その時、海が、真っ二つに割れて、今まで海だった所に道が出来たのだ。
恐らく、天国へ続く道だ。海が割れたのだ。OSHOの為に。
まさに映画のワンシーンのようだった。OSHOが天国へ帰っていく・・・。

私は夢なのか、現実なのかはもう、どうでもよくなっていて、しゃくりあげていた。
そして海が割れた場所へ、棺の中のOSHOはたどり着こうとしていた。
もうすぐそこが天国へ続く“海の道”という所まで来た時に、なんとOSHOは、突然、出現し“道”ができた地点を横目に、その側面を通過し白装束の弟子達に担がれて、そのまま海岸線沿いを、陸地に沿って向こう側へ行くではないか。天国への道を渡らずに・・・?どういう事、いったい?
天国の道を渡らなかったという事?
・・・そんな事って・・・海が割れたのに、OSHOの為に・・・、

私はグジャグジャに泣きながら腑に落ちない感情も同時に動いていた。
そして、なぜ天国への道をOSHOは、渡らなかったのか訳がわからず、混乱していた。
OSHO、何故?どういう事です?そして溢れ出る涙・・・・。

答えがでないまま3年、5年、10年と時が通り過ぎていった。
・・・そして、気が付いたら、あの時点から数えて・・・いつの間にか30年が経過していた。
OSHOの本や、私自身のつたない考えから答えらしきものを、やっと見つけたと思った。
OSHOは生前言っていた。「私が死んだら、もっと自由にお前達の元へいく事ができる」
仏陀の例を出してこうも言っていた「仏陀は天国への扉はくぐらなかった。(仏陀は私が先にいく事はできない!)と弟子達に言ったという。仏陀いわく「私は皆の来るのを天国の門の前で待つ!」と語ったと伝えられている。そしてOSHOは、「私もそうするだろう」と、「皆のくるのを天国の門の前で待つ・・・」と言い残している。
恐らく、OSHOはこの地球にまだ残っている。生きている人間以上に生きている。そして恐らく天国へも自由に行き来をし、亡くなった弟子達の成長と、まだ肉体の終焉がきていない地球上の私達も見守り、成長を促しているのだろうと思う。
OSHOなのだ!OSHOは覚者であると同時に、偉大な魔法使いでもあると私は思っている。

恐らく、OSHOは気楽に弟子達の元を尋ね歩いている。憶測でしかないが、間違いではないはずだ。私の所へも気楽に?(でも、私の様な、無意識で荒っぽいエネルギーに歩調を合わせてコンタクトを取るのは、とても大変な事だと思うが・・・)訪ねて来ているのだから。

OSHOは絶対に嘘はつかない。もしそういう事が起こったならば、何か別の深い意図があるのだと思う、30年後の私へのメッセージのように。

こんな事を言ったらOSHOは怒るだろうか?
OSHOはとても世話焼きだ。
ずっと、ずっと弟子の私達を遠くで、近くで、時に手取り、足取りしながら、見守っている。

OSHO!・・・出来損ないの弟子の私ですが、あなたの事をとても愛しています!
私が覚醒するまで、何回かの生をずっと見守っていて下さい。
愛するOSHO?

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