Human Centeredの考察2020.8.11

HumanCenteredというコンセプトが降ってきてからしばらく経った。
編集者さんにもお手伝いいただきながらとかあるけども、遅筆でというか、なんだ進まずに申し訳ない。

一旦、いろんな角度から「質問」をもらって、自分の中にあるものを掘り出して行ったりしていた。

今日あらためて、ちょっと書いてみたいと思う。

僕は霊長類としての人間が、好きだ。


理想を言えば、生まれてきたすべての命が、その生を全うできるような世界がいい、と思っている。


そういう発想が「左寄り」と定義されるということも、40を過ぎてようやくちょっと理解してきた笑


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生を全うできる、というのはなかなか難しい概念だな、と思う。

究極的に言えば「全うしていない生など一つもない」みたいにも言えるよなぁ、と思う。「あなたのその人生は、ダメですよ。価値ないですよ」なんて言える人生なんて、一つもない。そう思うところもある。

そっちの方に思考が振れると、何もすることはないし、全ては順調で完璧だ・・・みたいな気もしてくる。


一方で「そんな理不尽なことは許されない」とか「この構造には問題がある」とフォーカスして、それを一つずつちゃんとクリアしていこう、みたいなことも思う。

自分自身の人生においても、社会全体としてよくなる、みたいなことにおいても。


そんな思考の両極端の中を、揺れ動き続けているのは、自分だな、と思ったりする。


発芽しようとする根っこのところに石がある。
それをどかすことが愛なのか、それをそのままにしておくのが愛なのか。
これはとても難しい。

今、仕事の関係で、幼児教育について大量に本を読んでいるんだけど、あらためて教育とか愛とかっていうのは「体験を邪魔しない」ということが重要だなという感じがする。

石があるのをどかさない。

それでしか体験できないものがある、という視点はいつもどうしてもある。


でももう一つ。
「ユング心理学と仏教」の巻末にある、二人の若い僧の話。

川を渡ろうとして困っている女性を見て、一人の僧はすっと抱きかかえて川を渡る。
女に触れてはならないという禁を破って。


細かいところは本に譲るけど、
この時の、この行為は、愛なのか。単なる体験を邪魔する行為なのか。


だとしたら、愛は、果たしてどんな行為の中にあるのだろう?


たぶん、ずっとこのことについて考えている。

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たぶん、ホントはそんなに難しくない。


ピュアな愛を自然と生き続けている人たちはいて、

でも僕はそれを言葉の世界に引き下げて、あーでもないこーでもないとこねくり回してしいるんだ。それが性分だから、しょうがないと言えばしょうがないのかもしれないけど。

シンプルなことを、さも難解なことかのように扱ってしまう。


でももしかしたら、難解になってしまったこの世界にシンプルさを取り戻すのだとしたら、そういう思考も少しは役に立つのかもしれない。


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生きるということが、極楽浄土で、何のストレスも摩擦もなく、抵抗も葛藤もなく、ただただ極楽に進んでいくもののようには僕はたぶん思っていない。


人生はダイナミクスで、
カッコつけて言えば、森羅万象は生々流転していて、その営みに終わりはない。
動いていないものは何一つない。
動かないように見える大岩だって、本当は動いている。


出会いも、学びも、変化も、喜びも、悲しみも、一種の摩擦だ、と思っている。

「摩擦」は生そのものだ、と思う。


肌ざわりってある。
すごく滑らかで気持ちのいい肌ざわりもあるし、
ざらざらして不快な肌触りもある。

あれって、摩擦の細かい種類のことなんだ。

そこには「私の手」と「布」とかの、二つの、相対的な存在がどうしても必要で、その二つの個別化された相対的な存在が「触れ合う」「摩擦する」ことで生じる体験が、人生だなと思う。

僕らは一瞬たりとも「触れ合い」から逃れることはできない。座っているときは椅子との触れ合いの中を生きているし、歩いているときはアスファルトとの触れ合いの中を生きている。

部屋でじっとしていたって、空気との触れ合いを絶つことはできない。

社会活動をしていれば、人とも触れ合う。

触れ合う、ときには常にそこには摩擦がある。

心地の良い摩擦であれ、不快な摩擦であれ、だ。


さみしいとか、孤独だ、みたいなことすら、究極的には摩擦の一種だ。


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体験する主体としての「私」はなんだろうか?
CenterにあるHumanとはなんだろうか?


仏教は「私などない」という。空なんだって。
それは意識が空化したときに体験する、リアリティの次元なんだろう。

でもデカルト的な「われ思うゆえにわれあり」だってやっぱり一つのリアリティだ。

これを心地よい摩擦と感じる私、
これを心地悪い摩擦と感じる私、

その「私」という存在は、圧倒的にリアリティがある。


さて困った。

この「困った」とかを真剣に取り上げて悩んでみたのが、
例えば、インテグラル理論とか、そういうものになったりしてるんだろうか。

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全体と個。


個室で暮らしていると全体感のリアリティが減っていく。

ふすまで区切られてるくらいだと、全体感のリアリティがもうちょっと高い。


全体が個を侵食しようとすると、個は辛い。
そういうのを全体主義っていうんだろう。

全体と個は、どう考えても相互影響し合っているんだけど、

硬直化した全体が、個への侵食が強すぎる、
それが今の状況だろうか?

「全体Center」に対して「個Center」を主張したいのだろうか?

でも、そんな簡単じゃないんだよな。


全体と個とが、より調和した状態、
そういうのがある気がするし、そっちの方がいいと思っているんだろう。


大きなプロセスの中で、そういう流れがある・・・と思う面もあるし、
小さな個として「働きかける」みたいなことの大事さや尊さ、みたいなことを思う面もある。

バランス。

うーん。


続く。


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