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Human Centered 其の一

これからは「Human Centered」の時代だと、私は考えています。

もし対比を置くとしたら、Money Centeredというのが分かりやすいと思います。
お金が中心の世界。「収入が増えれば、幸福も増す」という相関が成り立っていた世界です。

日本は戦後、高度経済成長期(1955~1973年)を体験しました。
出生率が2を超えていて時期でもあります。つまり、人口が拡大トレンドにあり、
すなわち国内市場が拡大トレンドにあった時期でもあります。
テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器と呼ばれ、家電が一般家庭に普及していった時期でもあります。
さらに、カラーテレビ、クーラー、カーが新三種の神器と呼ばれ、製造業の繁栄が、生活の豊かさと直結することを感じられた時期でもあります。

環境破壊などの弊害とそれに対する対策などもありつつも、
「どんどん豊かになる」ということをこれほど感じられた時間というのは、世界史的に見ても稀かもしれません。

しかし、トレンドが変化するいくつかの要素があります。
一つは、人口動態です。出生率が2を切るようになったのは1975年からです。
日本の人口はその後も増えましたが、それは平均寿命が伸びていることが主な要因と言え、
子供の数は徐々に減っていってきていました。それはマクロ的に言えば人口減少のトレンドに入っていたと言っていいと思います。

もう一つは工業製品普及の飽和です。

自動車がほとんどの家庭にない状態から「10軒に1台」「10軒に5台」と増えていくことは、
「社会全体の豊かさが増している」と実感しやすかったことと思います。

しかし「10軒に10台ある」という状態になれば、
少なくとも販売台数という数字はもうこれ以上なかなか伸びません。
売上も伸びないし、GDPも伸びない、そういう状態になってきます。
実際、「世帯当たり保有台数」は1996年に1台を超えてからほぼ伸びていません。

核家族化なども進んで世帯数そのものが伸びているため、全国での保有台数は増加傾向ですが、
「世帯で一台以上持つ」ということはほとんどない製品だと言っていいと思います。

自動車は「一家に一台」が限界であり、
例えばテレビなどにしても「一人に一台」で限界と考えて差し支えないでしょう。

「モノによって豊かになる」ということは2000年頃には、社会的に飽和してきていたと言っていいと思います。

もちろんその後も、製品の高機能化などは進められて、
10年前に200万円で買った車より、今年買った200万円の車のほうが高機能である、
ということはあります。しかし、売上高もGDPも、それでは増えないわけです。
ここで「豊かさが、売上高やGDPに反映しきれない」世界が到来しています。

それはまさに「失われた20年」と呼ばれる、1990年~2010年あたりと重なるのです。

明らかに社会情勢はシフトしており、
経営(や政治など)のかじ取りなどは、売上やGDPといった指標からシフトすることが求められる情勢になっていたと言えます。

今考えれば、この辺りの時期がMoney Centeredから卒業すべき時期であったと思われます。

社会にモノは溢れ、
多くのモノはすぐにコモディティ化し、
モノによって豊かさを実感する時代が終了していったわけです。

そして、この頃から、特にマーケティングの世界などでは「モノを売るな、体験を売れ」「物語を売れ」といったシフトが起こっていました。

つまり物質的豊かさから、非物質的豊かさへと、社会全体が価値の比重をシフトしてきたことになります。

この流れの延長線上に「Human Centered」というコンセプトはあります。
つまり、人間が幸福を感じたり、喜びを覚えたり、充足したりするものは「モノそのものではない」ということです。
モノを買うためのお金でも、もちろんありません。

近所の公園で子供とゆっくり過ごす時間と、
テーマパークに行って子供と遊ぶ時間と、
どちらのほうが幸せか、豊かか、これを決めるのは簡単なことではありません。
と言うよりも「人それぞれ」と言えるでしょう。

つまり、人間が、自分自身で選んだり、感じたりするものです。
だから、Human Centeredなのです。

しかし、これが国全体として「GDPを増やしましょう」が奨励されていると、
「近所の公園で子供とゆっくり過ごす」はGDP増に貢献せず、
「テーマパークに行って子供と遊ぶ」はGDP増に貢献することになります。

「おいしくできた料理をお隣さんにおすそ分けする」はGDPに貢献せず、
「テクアウト事業を始めて宅配する」はGDPに貢献します。

「子供の勉強を親がみる」はGDPに貢献せず、
「家庭教師を雇って子供の勉強をみてもらう」はGDPに貢献します。

どちらが良い、悪い、ということはないと思います。
個人(人間)が、自分の好みや価値観で選択すればよいことであると思います。
人間(Human)が、自分を中心(Centered)にして選べばよいのです。

GDP増の方を選ばないのは非国民だ!などと言われる必要もないと考えています。

人間が感じる幸せや豊かさがGDP(売買高)に反映しきれなくなった時点で、
GDPといったMoney指標に頼らずに社会を営んでいくほうが合理的だと言っていいのではないでしょうか。

価値の多様性を認識し、
「売買による価値の享受」と「売買以外による価値の享受」と、その合算したものを社会全体の豊かさとして見るとよいのだと思います。

素晴らしい本を買って読む豊かさもあるでしょう。
友達と道すがらしゃべる豊かさもあるでしょう。

新車を買ってワクワクする豊かさもあるでしょう。
近所を散歩して感じる豊かさもあるでしょう。

豊かさとは、そもそも非常に主観的なものだと思います。
「私」が豊かだと感じれば、豊かなのです。
価格が高かろうが、無料だろうが、それは人間(Human)が決めていいのだろうと思います。

価値の多様性(Diversity of Value)が重要な時代へ、今まさにシフトしているように感じています。


社会全体がそのような方向へシフトしていると考えて間違いないと思いますし、
そのトレンドは、企業経営の中にも取り込んでいけるものと思っています。


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