曖昧さを許容する知性

ワクチンについても、色んな情報が飛び交う。コロナになって「色んな情報が飛び交う」のは常態化してきたかもしれない。マスクがどう、宣言の効果がどう、ホントに色んな意見が出てくる。


ワクチンは有効だという主張もあれば、ワクチンこそが変異株を生み出している元凶だ、というような主張もある。

そして、ワクチンに関しては「(今)打つ」か「(今は)打たない」か判断しなければならない。自分で判断しなければならないというのは、大きなストレスでもある。「自分で判断できる」ということは自由の源でもあるけれど。

そして、判断したからには「自分の判断は正しかった」と思っていたいのが人間だと思う。「自分の判断は間違っていたかもしれない」ということを抱えたまま生きていくのは、これまた大きなストレスだから。

「打つ」という判断をしたら、有効性やメリットの情報が欲しくなるし、デメリットなどの情報に触れるのはストレスになる。「打たない」という判断をしたら、ワクチンの危険性や、デメリットの情報を集めるようになる。
その方がラクだからだ。

そして、自分の判断と違う判断をした人との接触はストレスになる。攻撃して、制圧しようと試みたりもする。「自分は間違ってない」「自分は正しい」それを証明するためには、ちゃんと相手を攻撃して制圧する必要性が生じたりする。

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小学生のころから、「正解」が決まっていると教え込まれてきた。

1+1は2だし、
読解問題の正解はAかBのどちらかだし、
正しい漢字の書き方も決まっている。

正解を出せることが偉い。
正解を出せることで点数がもらえる。点数が高いと褒められる。

この世界観は、とても根強いと思う。

「正解がある」
「正解は一つである」

そういう教育と言うか、訓練と言うか、
そういうものを僕らは施されてきたよな、と思う。

科学的、ということもそうで、
実験室で、同じ工程をたどれば、必ず同じ結果が出る。
そういうものが、尊ばれる。

けど、実際問題として
例えばワクチンと言うものが
有効かもしれないし、未来に重大な症状を起こすかもしれない。
変異株を生じさせる原因かもしれないし、感染を抑え込む要因かもしれない。

これは「言い切れない」というのが実際のところだと思う。
それでも「打つ」「打たない」の判断はしないといけない。
正解が分からないのに、判断はしないといけない。

その時に「正解は分からない。
自分の判断が合っているのか、間違っているのかも分からない」
といえる態度、その知性というのは、とても大事な気がする。
そうであれば、自分と違う判断の人と対話もできるだろうし、
共存することもできると思う。

そうでなければ、どうしても批判的、攻撃的になったり、
実際に攻撃してしまう、ということも起こるだろう。

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僕の恩師は、高校の授業で芥川龍之介の「藪の中」を扱うような人だった。

今思えば、本当に貴重なご縁だったし、
本当に大切なことを教えてくださった。

「藪の中」は、殺人事件に対して、男、女、強盗、第一発見者、、、など7人の証言がそれぞれ微妙に違う、ようは裁判の話だ。

そして「答えは、藪の中」という話。

「正解がない授業」と言うものを初めて提供された。

謎を紐解いていけば「実は、真犯人はこいつだった!」と分かってスッキリするというようなものではない。

今思えば、山岸先生は「スッキリできないものを抱えたまま生きていくことはとても大事なんだよ」と伝えたかったのかもしれない。

少なくとも、自分の血肉にはなっている。。。
平和な社会のためには、
矛盾を許容する知性とか、曖昧さに耐えられる知性とか、
そういうこともすごく大事なんだろうなと思う。

算数の難問に挑戦して「解けてスッキリ!」というのは気持ちいい。
そういう体験も大事だと思う。

同時に「スッキリしない」も内包して生きていられる自分でありたいなと思う。

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