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「この一瞬という永遠の中で 」 (リーグ第21節・ガンバ大阪戦:4-0)

 試合前の選手紹介。
ベンチに復帰した登里享平のアナウンスに、一層大きく、温かい拍手が起きていた。みんなノボリを待っていたのだ。

その直後、今度はそれと同じぐらい、いや、もしかしたらそれ以上に大きな拍手で迎えられた存在がいた。

 寺田周平コーチだ。
鬼木達監督の不在により、この試合で代行監督として指揮を執ることなっていた。等々力中に湧き上がるような盛大な拍手が起きる。

 あぁ、いいなと思った。
長くクラブを支えてきている寺田コーチを、スタジアム全体で温かく応援できる、この雰囲気。皆、声を出して応援することはできないけれど、一緒に戦う仲間に向けた「頼むぞ!!」という力強いメッセージのような拍手に僕には聞こえた。

 寺田周平コーチに関していえば、最近サポーターになった方は、よく知らないかもしれない。

 彼が川崎フロンターレに入団したのは、創設3年目の1999年だ。189cmの高身長DFで、伊藤宏樹、箕輪義信と組んだハイタワーの最終ラインは「川崎山脈」と評されていた。2008年には日本代表に選出。32歳339日での日本代表初出場は、Jリーグ発足後では最年長記録だ。2010年に現役引退後も、このクラブで指導者としてのキャリアを積んできた。

 1999年からクラブ一筋だったので、ある意味では、中村憲剛FROや伊藤宏樹強化部長以上にクラブの歴史を知っていると言っても過言ではないかもしれない。

 例えば現在のクラブハウスになる前、旧クラブハウスはよく「プレハブ」と言われてネタにされているけれど、周平コーチは麻生グラウンドができる前の時代も経験している。

 選手たちは南多摩のグラウンドで練習をしていて、クラブハウスが完成する直前は扇島で練習していたらしい。扇島の練習場では大きい部屋があって、そこで着替えるだけ。それだけに麻生に最初のクラブハウスができたときは、ロッカーで着替えもできてシャワーもお風呂もあるので、その設備に感動したそうだ。つまりは、そういう時代を過ごしている人だ。

 そんな寺田コーチの初采配となったゲームは、4-0で勝利を飾った。
前半の早い時間帯に退場者が生まれて10人になった影響は大きかったとはいえ、久しぶりの大勝だ。特にここ最近の等々力では天皇杯3回戦での東京ヴェルディ戦(0-1)、ジュビロ磐田戦(1-1)とゴールシーンが少なくて、モヤモヤしていたサポーターも多かったに違いない。欲を言えば後半にもゴールを見たかったけど、そこは今後への前向きな課題としておこう。

 試合後。
選手を取材するミックスゾーンに向かおうかと思ったものの、ここはやはり寺田周平コーチの初会見を聞きたいと思い、監督会見の方に出ることにした。

 会見場に現れた寺田コーチは、入室する際に「お願いします」と丁寧な一言を発してから壇上に向かっていた。やはり背が高い。そして壇上に着いた際、もう一度「お願いします」と述べてから会見が始まった。

「この1週間、イレギュラーなことが起こって、難しい状況ではありましたが、スタッフと選手がしっかりと協力して、このゲームに対して高いモチベーションで臨むことができたと思っています」

 そう切り出して試合の感想を伝えながら、記者からの質疑応答も答えていく。

この一戦における大枠のゲームプランやメンタル的なことは、オンラインで鬼木監督からミーティングで伝えられていたこと、ゲーム中もコーチングスタッフを通じて、鬼木監督とのコミュニケーションを取っていたことなどを明かしていた。ハキハキと、それでいて丁寧に答えていく姿は、実に寺田コーチらしかった。
 
 代行監督なので、自分の色はほぼ出さなかったとも言える。でも試合後の脇坂泰斗は、試合前に寺田周平コーチが話したこんなエピソードを明かしてくれた。

 それは、この試合でなぜあれだけゲームの入りが良かったのか。その謎が腑に落ちる話だった。

■「そういう自分の体験を入れてお話ししてくれた。そこで、みんなそういうゲームにしたいと思っていたし、僕もその通りだと感じました」(脇坂泰斗)。寺田周平コーチが試合前に語った、試合に入るときの心構えとは?

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