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「違う、そうじゃない」 (天皇杯3回戦・東京ヴェルディ戦:0-1)

 等々力陸上競技場での天皇杯・東京ヴェルディ戦は0-1の敗戦。

「等々力劇場」や「等々力の奇跡」はこれまで何度か見てきましたが、東京ヴェルディから「等々力の奇跡」としばらく語り継がれていきそうな試合でした。

ヴェルディが川崎フロンターレ等々力で勝つのは2000年以来、22年ぶりとのこと。2000年といえば、まだヴェルディ川崎だった時代です。それ以来の勝利だそうです。

昔話ついでに言うと、川崎フロンターレがJ1復帰した2005年シーズン、初勝利を挙げた相手は、第4節の東京ヴェルディ1969(当時)でした。場所は等々力競技場。スコアは1-0。あの時も雨だったと記憶しています。

当時はJ1とJ2のレベルの差が大きいと言われており、昇格したチームが1年でJ2に逆戻りすることも何ら珍しくない時代でした。そのぐらい、J2上がりのチームはJ1で勝てなかったのです。

この時の川崎フロンターレもJ1の壁を痛感し、開幕からリーグ戦は3試合勝てない状況。等々力にあるフロンターレ神社の位置を「向きが悪い」という理由で変えたりと、J1で勝つために試行錯誤をしていた・・・・ような気がします(うろ覚え・笑)。

一方、当時の東京ヴェルディは、アルディレス監督による華麗なパスサッカーが魅力満載で、2005年の元旦に天皇杯を制覇。元ブラジル代表のストライカー・ワシントンを補強し、この年は優勝候補の一角とも言われていました。

そんな名門クラブ相手に、川崎フロンターレがJ1復帰後の初勝利を挙げたわけです。フロンターレサポーターの多くはJ1で1勝することの大変さを噛み締めた勝利でもあったと思います。それが2005年でした。

 あれから17年。
場所はあの時と同じ等々力ですが、両者のJリーグにおける立ち位置は大きく変わリました。J1王者の川崎フロンターレに、J2の東京ヴェルディが下したこの結果が、世間では「ジャイアントキリング」と評されるような時代になっています。

 試合の敗因として、いくつかのポイントがあったと思います。うまくいかない流れを振り返っていくと、やはり問題は前半に多かったと感じました。

 例えばビルドアップ。
この日は山村和也と車屋紳太郎のセンターバックコンビ、そしてアンカーのジョアン・シミッチが落ちる3枚でビルドアップが基本でした。東京ヴェルディのフォーメーションは4-3-3-ですが、前からのプレッシングをせずに、セットする守備では4-4-2で構えるのがベースです。

 なので、4-4で組んだブロックをどう攻略していくかがポイントだったわけですが、ブロック崩しのポイントを握るであろうインサイドハーフの瀬古樹と小塚和季が窮屈そうで、思うように中央でボールを受けられません。

 引き出す立ち位置の問題なのか、出し手との呼吸が合わないのか、もしかしたら両方だったのかもしれませんが、中央からの攻撃が循環していきません。逆にパスを出す側からすれば、瀬古樹と小塚和季が相手に隠れてしまうことが多くて、パスコースがなかったのかもしれません。いずれにせよ、中盤からの攻撃のリズムが生まれません。

 うまくいかない前半、印象的な光景がありました。
それは瀬古樹の振る舞いです。ボールを動かす際の味方のポジショニングやバランスの修正を図ろうとして、彼はしきりにジェスチャーを織り交ぜながら、イメージを擦り合わせようと奮闘していました。

 しかし最後まで、攻撃は好転せず。結局、瀬古樹と小塚和季、そして宮城天は前半のみのプレーとなり、ハーフタイムに交代を告げられています。

 試合後のミックスゾーン。
瀬古樹を呼び止めて話を聞きました。

悔しさをにじませながらも、「やりたいことが、ちょっとうまくいかなかったです」と言葉を絞り出してくれました。

そして、試合中のあの味方へのアクションで何を改善したかったのかを尋ねると、選手同士の「距離感」だったと言います。

「(前半は)基本的に選手の距離感が遠かったですし、僕だけではないですが、ボールが入った時にいろんな選手が孤立していました。その辺をうまく調節したくてコミュニケーションを取っていたのですが・・・・それが良い方向に進まなかったです」

 では、距離感を改善して出したかった攻撃の変化は何だったのか。

■「そういうプレーが出た時はゴール前までいけている。その回数を増やして、決めるべきところを決めたかった」(瀬古樹)。奏功しなかった前半の原因。試合後の瀬古が悔やんでいたこととは?

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