手を握られた話。

先日、ちょこっと手術を受けたのである。

歩いて行って歩いて帰れる程度のもので、一時間くらいで終わった。

でも、私はものすごく臆病で、虫歯の治療で笑気ガスのお世話になるようなタイプなのだ。

ゆえに、局部麻酔だけでふるえが来るほど怖がっていた。

また、この麻酔が、かなり痛いものだったのである。1カ所にちゅうっと入れる感じではなく、少し広い範囲をちくちくちくちく刺していく。この「ちくちく」のひとつひとつが、とても痛い。そして、なかなか終わらない。いたい。いたいのである。

10年以上前、顎関節症の治療で麻酔をした際、目眩や吐き気で立ち上がれなくなった。麻酔でおかしくなったのはそれ1度きりなのだが、最近でも歯の治療などで麻酔をするたびに「またああなるのではないか」という恐怖に襲われる。

さらに「またああなるのでは」と恐ろしくなると、アタマが勝手に「あのときの状態」をシミュレーションしはじめる。すると、体がだんだんそっちの方に引っ張られていく感じがする。あわてて「いや大丈夫だ、大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、ひきもどそうとする。

しかし、その「言い聞かせ」も、あまり威力がないような気がしてくる。もうあたまのなかがめちゃくちゃになってしまうのだ。

今回も例に漏れず、痛みと恐怖で全身がこわばった。逃げ出せるものなら逃げ出したい。しかしそうもいかない。もうどうすることもできない。こわいよ!こわいよいたいよつらいよ!…わああああああ!(←脳内)

そのとき、私の片手を、誰かの片手が包み込んだ。

恐怖のあまり握り締めた拳を、甲のほうから包むようにして、手袋ごしに握ってくれたのである。

多分、看護師さんの手なのである(目隠しで見えない)。

この「誰かの手」が、びっくりするほど、助けになった。

体温がじわっとつたわってきて、不思議なくらい「大丈夫だ」という気持ちになった。「助けてもらえる」という気持ちになった。

これはじつに妙な感じだった。

冷静に考えれば、手を握っているだけなのである。
何も起こっていないのである。
痛いのは痛いままである。チクチクは継続中なのである。

なのに、明らかに脳内パニックが収まっている。
まるで、手の甲からパニックが吸い出されていくようである。

初めての体験であった。

これは、生まれつき重度の「臆病」という、もはやほんとに病気なのではないかというくらい面倒な性質を持つ私のような人間にしか、体験できないことかもしれない。

いい大人になって、注射くらいで「手を握ってもらってすごく安心する」なんて、レアケースであろう。

それに、相手は顔も知らない人なのである(みんなマスクをつけている)。

脳の中で「手の皮膚の感覚を感知する部分」は、他の皮膚の何倍も広いエリアを占めているという。手は、とても敏感なのだ。

手を繋いだり、手を握ったりすることは、もしかすると、想像以上に大ボリュームの「なにか」を伝えてしまう、特殊なコミュニケーションなのではあるまいか。

私が看護師さんの手から感じたのは、「やさしさ」「愛情」「人のぬくもり」「おもいやり」などのスイートなものではない。

たとえるなら、溺れかけている人間が、「今から助けるぞ!」と言われたときのような感覚である。この苦しみから助けてもらえる、自分一人でこのままめちゃくちゃになるわけではない、というギリギリの希望である(大袈裟)。

あるいは、この痛みや苦しみは決して、この医療現場で無視されてはいない、という安堵だったかもしれない。苦しみがスルーされることによって、人は孤独になるのだ。

もっといえば、頭の中で独りぼっちでぐるぐるしている状態から、「他者のいる現実」に引き戻される、というクールな感じもあった。手の感触を通して、幻想を諫められ、「リアル」へと意識が飛び移る感じがした。独りぼっちの部屋から、人がいる外へ出たような感じがした。いやな夢から覚めるときの感じに、ちょっと似ていた。

「ひとりじゃない」というのは、単に寂しさを紛らわすとか、そういうことではないのである。私はどちらかと言えば、寂しがり屋ではない。一人でいる方がラクな人間だ。「自分一人で死んでいきたくない!」とも、思わない。死ぬ時は一人がいい。

私が怖いのは、死や孤独ではなく、体の痛みや苦しみなのだ。自分のこの体の状態がどうなってしまうのか解らない、もっと痛く苦しくなるかもしれない、という感じが怖いのだ。

この絶対的な恐怖に対して、「他人=自分以外の誰か」に、できることなどないと思っていた。どんなに励まされても、宥められても、痛みは消えてなくならない。なにをされようと、このチクチク痛い麻酔の苦悩や、あの時具合が悪くなったことへの恐怖は、ぬぐい去られるわけもない、と思っていた。

しかし、実際に「手を握ってもらう」ことで、私はかなり安心したのである。

正直、面目なかった。そういうわかりやすい「励まし」に元気づけられてしまったことが、なんとなく甘ったれのようで情けない気がした。自分はそういうものを求めるタイプではないと思っていたのに、と、恥ずかしい気持ちになった。

多分、手を握ってくれたのが、看護師さんという「専門家」だったからなのかもしれない。万が一本当に大変なことになったら、ちゃんと私を救う技術を持った人だったから、なのかもしれない。

でも、それだけでもないような気がした。

人間は、大自然で独りぼっちになると、ほぼ死んでしまうのだ。

社会の中でもそうである。

人間は集団になることでなんとか、生きのびる生き物だ。独りぼっちで「無縁」の状態になれば、飢えるか凍えるか熱射病で死ぬ。「お金がある」ということも、広い意味では、一つの社会的な「縁」だと言えるだろう。お金によってかろうじて、社会と結びつくことができるのだ。「人間、死ぬ時はだれでも一人」とはよく言われるが、逆もまたしかり(?)で「一人だと死ぬ」のも人間なのである。

「山の中の一軒家に、独りぼっちで住んでいる」人を訪ねていく、というテレビ番組があるらしい。そこにテレビクルーが「行ける」ということは、道があって、社会とわずかにつながっているということだろう。もとい、完全自給自足で、本当に「独りぼっち」で住んでいる人ももちろん、いるかもしれない。そういう方が合っている、という人もいるかもしれない。そこには猫も犬も小鳥もいないだろうか。いないかもしれない。そういう人だっているだろう。でも、多くはないだろう。

「山の中に独りぼっちで住んでいる」人を訪ねていく番組は、今の時代の多くの人の心を移しだしているような気もする。つまり「このまま自分が独りぼっちになってしまったら、生きていけるのだろうか」「こんな辛い世の中で、孤独に生きているくらいなら、いっそ世の中かから離れてしまいたいが、それは可能なのだろうか」「本当の独りぼっちというのは、どんな感じなのだろうか」などのことである。

あれを見て楽しむ人の心にも、ある種の孤独があって、その孤独の振りきった表現系として「山の中の孤独な住処」の可能性が求められているのではないか。つまり「自分の日頃の夢想を、実現している人がいる」というファンタジーである。

人間が、他の人間と結びつこうとする、ということへの欲求や潜在的な希望のようなものを、私たちは今、感じづらくなっているのかもしれない。そんなものは「ないもの」とされているようでもあるし、信じられなくなっている、とも言える。「自己責任」という言葉はその最たるものだ。「他人を頼るな」というメッセージは受け取れても、「どんなふうに連帯できるか」は、なかなか教えてもらえない。

たぶん「人に手を握ってもらって安心するなんて、恥ずかしい」という私の気持ちも、自分一人でひねり出したものではないだろう。

「見知らぬ人に手を握られて安心する」機能を自分の中に発見して、心底驚き、複雑な気持ちになった。まるで自分のことではないような、神秘的な現象だった。自分の知らない感情が、自分の中から出てくるのは、実に不思議な感じがするものだ。

手術が終わってからも恐怖の余韻でがたがた震えがやまなかった。誘導されたり薬の説明されたりするのでいっぱいいっぱいであった。帰り道で「ああ、伝言でも、お礼を言えばよかった」とはじめて気づいた。次の通院の時、伝えられるだろうか。


もしかしてもしかすると、携帯電話やスマートフォンを「バイブレーション」させるのも、こういうことからきているのかもしれない。

つまり「自分以外の誰かからのアクションを、手で感じられる」ようにするためだ。

もちろん、お尻のポケットなどで感じている人もいるが。


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このニュースを読んで、「ハグをして」と願った痛切な気持ちが少し想像できたのは、この手術の体験のおかげだと思う。もちろん、完全に解ったとは全然言えないが。




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