自分とは、何者か。(1/5)

「あなたは、だれですか」。

街頭インタビューと称して、街ゆく人にこう問いかけるテレビ番組があった。もう10年くらいも前、夜のニュース番組の、一コーナーのことだったと記憶している。

私はそれを見て、憤慨した。
何と失礼なことだと思った。

「自分が誰なのか」ということは、その場その場の状況によって変わる。名乗りもしない人間がマイクを向けて「お前は誰だ」と問うのは、卑怯なのである。なぜなら、その質問を投げかけられた人間には、問いかける人間の「真意」は明かされていないからだ。

この企画はたしか、「自分が誰なのか」というアイデンティティが曖昧な時代である、というテーマに基づいて構成されていた。つまり「聞かれた人が、みんなあやふやでとんちんかんなことを言う」ことを期待されていたのである。

あやふやになるのは、あたりまえだ。
「自分は誰か」ということは、その「場」に規定される。お見合いの場で聞かれるのと、保育園の園庭で聞かれるのと、家の前で近所の人に聞かれるのと、職場で別の部署の人に聞かれるのと、取引先で聞かれるのとは皆答えが違うのである。
「場」の意味が意図的に隠された上で、「場」の意味をなんとなく想像しようとしている善意の人々から、曖昧な答えをわざと引き出そうとしている、その「卑怯さ」を自覚しない取材者の、あまりの傲慢さ、他者に対する敬意の欠落に、私は衝撃を受け、強い怒りを感じ、テレビに向かってむなしく怒鳴っていたのであった。

なぜこんな腹立ちエピソードを開陳したかといえば、それは、「あなたは誰なのか」という問いのことである。

ギリシャ神話の「オイディプス王」の神話、もっといえばソポクレスの悲劇『オイディプス王』三部作が私は大好きで、過去何度も読み返してきた。新宿朝日カルチャーセンターさんにて、阿藤智恵さんと対談した「運命」の話でも、私のターンではほぼオイディプスのあらすじを喋って終わったような気がする。それでも(この話をご存じない方には)十分面白かっただろうな、というくらい、おもしろい話なのである。

この「マルジナリア2」の稿は、ずっと「運命」というメタテーマを念頭において書いてきた。
運命、という言葉を思うと、私はまず、オイディプス王の神話を想起する。
ただ、この話はとてもたくさんのテーマを含んでいて、とても私なんかの手におさまるものではない。古今の思想家や文学者が、オイディプスのことをずっと考え続けて来た、と言っても過言ではないのではないか(どうだろう)。

とはいえ、本稿では、というか、私は、オイディプスを通らないわけにはいかないのだ。

まずは、以下にオイディプス伝説のあらすじをご紹介しよう(ご存じの皆様は飛ばして下さい)。

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テバイの王ライオスと王妃イオカステのあいだには、どうにも子どもが生まれなかった。
悩んだ王ライオスは、デルポイ神殿にお伺いを立てた。
すると「お前の子どもはお前を殺すだろう」という神託がくだされ、王は大いに驚いた。

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マルジナリア・2

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