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名画『ミスター・アーサー』とクリストファー・クロスの名曲

映画『ミスター・アーサー』をみた。たしか30何年か前に劇場で一度みている映画なのだが、自分の記憶にある場面はダドリー・ムーアの入浴シーンだけ。いまとなっては、ストーリーも、登場人物も、はてはクリストファー・クロスのあの曲がどこでかかっていたのかさえまったく思い出せないほど印象が薄い映画だった。テーマ曲が大ヒットしたコメディ映画ということでかなり期待してみたものの、思っていたより笑えるシーンもなく、たいしておもしろくなかった、そんなふうに思った記憶が微かに残っている。

が、いまあらためてみてみると、まるで違ってみえた。内容自体はありふれた恋愛物語ではあるけれども、そのスマートな展開がとても心地いいのだ。演者のなにげない所作や言葉にはいろいろな含みが感じとれ、映画全体を貫く軽妙洒脱なムードからはミドルエイジの恋愛にたいするほろ苦さがにじみ出る。年齢を重ねたいまみるとひとつひとつのシーンがなんだかとても粋に感じられ、ときに愛おしささえ感じるのだ。ダドリー・ムーア、ライザ・ミネリ、ジョン・ギールグッドはことに素晴らしく、彼らからあふれる人間臭さ、それぞれがたどる人間模様を見つめているだけでもとんでもなく楽しい。ほのかに人生の機微を感じとれる立ち居振る舞いはとても自然で、それがストーリーに集約されてぐいぐい引き込まれる。名演とはこういうことか。

思い返してみれば、初めてみたときの自分はこの映画を『ゴーストバスターズ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のようなものとして楽しもうとしていた気がする。コメディ映画というだけでイメージが凝り固まってしまい、そこから想像がひろがらなかったのだ。よくよく考えてみると、クリストファー・クロスのあの曲をテーマ曲にするくらいなのだから大笑いするような映画にはなかなかならないだろう。が、当時の自分はそんなことを考えもしなかった。自分のような浅はかな若輩者がみる映画ではなかったのかもしれない。


ところで、映画をみて、余韻にひたっていると、急にこんなことが頭をよぎった。

クリストファー・クロスの代表曲ともなったテーマ曲、その名も「Arthur's Theme (Best That You Can Do)」を彼自身はどう思っているのか、またどう思っていたのだろうか。

「Arthur's Theme (Best That You Can Do)」はこの映画のために書き下ろされた曲で、タイトルそのままに、映画のストーリーをなぞったような内容の曲だ。映画の公開とあわせてシングル発売された曲は、あれよあれよと言う間にチャートを駆け上がり、大ヒットを記録。日本でも「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」という印象に残る邦題でこれまた大ヒットし、洋楽ファンのみならず、一般的にも彼の名前を知らしめることとなった。いまではこの曲が映画のテーマ曲と認識する人も少なく、「Arthur's Theme」といわれても、アーサーってなに? という人も多いのではないだろうか。"クリストファー・クロス=「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」"という、まったく映画を介さない図式が日本人の間で定着するようになったのも拍車をかけた。

この曲はクロスのキャリアのなかでは異色な経緯で生まれた。当時、新進気鋭のミュージシャンとして台頭してきたクロス。彼への曲作りのオファーは共通のプロダクションだったワーナー・ブラザーズの強力なテコ入れがあってのことと思われるが、この映画の監督スティーヴ・ゴードンは"映画の曲を作ることが初体験となる若い作曲家では心許ないから、実績じゅうぶんの作曲家にやってもらおう"と、クロス単独の作品になることを拒んだという。結局、映画プロダクション側はバート・バカラックをメイン・コンポーザーに選び、クロスはその名匠とともに曲を作ることになった。さらに、どういったわけかそこにキャロル・ベイヤー・セイガー、ピーター・アレンも加わることで制作されるのだが、クロス以外の3人はそれぞれプライベートでも関係がある間柄で、クロスはまったくのゲスト扱いだったのでは? という想像がはたらく。大御所に囲まれたこのときのクロスの心情はいかばかりのものであったろう。かなりのプレッシャーがあったはずだ。

とはいえ、デビューしてすぐに注目を集めた若いアーティストが大ベテランたちと共作したことは名誉であろうし、この抜擢はクロスにとっての飛躍となったに違いない。出来上がった曲は、映画のために作られたという事実をかき消してしまうほど高く評価され、クロスの名曲として独り歩きを始める。以来、いまでは彼の代表曲となり、ライヴでは定番中の定番としてうたい続けられている。

この曲をうたうとき、クロスはなにを思っているのか。おそらく、彼はそこにある恋愛譚にフォーカスしていて、アーサーやダドリー・ムーアのことなど考えてはいないだろう。それはこの曲をライヴで聴く観客にもいえることで、彼らは映画のことを考えることなく、この名曲を味わっていることだろう。クロスは日本でこの曲をうたうとき、"New York City Serenade"と紹介し、観客も"ニューヨークの愛の歌"にうっとりする。映画は顧みられることなく、そこから抽出された歌が人々を魅了する。

遅まきながらいまになって映画『ミスター・アーサー』に感動している自分にとって、独り歩きしてしまったテーマ曲の陰となった映画を思うと、アーサーがあまりに不憫に思えてならない。この曲はニューヨークについての歌ではなく、アーサーという人物の歌であり、そんなアーサーの物語を描いた素晴らしい映画がある。かつては映画のことなどまったく気にもかけなかった自分がいうのもなんだが、この歌を好きな人にはそんな名画があることも知ってほしい、老婆心ながらいまはそんなことをつい思ってしまっている。

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