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スザンヌ・ヴェガの「Luka」

 道を歩いていると、2台の自転車がこちらに向かってきた。2台は母子。小学生らしき娘は自転車乗りを覚えたばかりらしく、ふらふらしている。その子の後ろについた母親は安定しない運転の娘にいろいろとアドバイスしている。と、娘はバランスを崩し、自転車を倒してしまった。途端に母親が娘をなじる。
"小学生になって自転車に乗れないなんて恥ずかしいよ!"
その子はなにも言い返すことができない。自転車を起こそうとするがまたバランスを崩し、今度は自転車の前カゴにあった荷物を散乱させてしまう。
"ちょっとは頭つかえよ!"
母親は感情剥き出しに怒鳴る。その声は数メートル離れたこちらにもはっきりと聞こえてきた。見ると、その子は萎縮し、固まってしまっている。どやしつけられながら、その子はゆっくりと荷物を前カゴに戻し、黙ったまま自転車を押して歩き始める。

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 その日の夜、スザンヌ・ヴェガがうたう「Luka」の映像をたまたま目にした。つい1年ちょっと前に撮影されたというそのライヴ映像に衝撃を受けた。彼女は、33年前にうたった繊細なルカの心情をいまも変わらず、切ないままそっと差し出していた。ルカはいまの彼女の歌声のなかで、33年前と同じように、どこか遠くを見つめながら時をやり過ごしていた。

 1987年、この曲を初めて聴いたときの記憶はいまだ鮮明に残っている。親から虐待を受けている、幼いルカの坦々とした独白。全身にうすら寒い、不穏な気味悪さを感じるとともに、どうしようもないやるせなさばかりが頭を巡った。理由もはっきりしないまま責められ、話すこともできない親子関係。そのなか、何事もなかったかのようにそれを受け入れ、独りで生きている少年。彼の言葉はとても重く響いた。
 当時の日本では、親が自分の子供を虐待するなどといった報道はほとんどなかった(実際には可視化されていなかっただけなのだろうが)。歌で語られるルカの言葉はとても息苦しく、その言葉に耳を傾けることはあまりに辛かったが、それは自分にはまだ対岸の火事のように聞こえたものだ。

 しかし、昨今の日本で、児童虐待のニュースは頻繁に目にするほど身近な出来事になった。実際、家の近所で子供を怒鳴りつける親の叫び声を聞いたこともあるし、自転車の女の子のように道端で親の理不尽な叱責に怯える子供もときおり見かけるようになった。いま、ルカのような、苦しんでいても叫ぶことができない、いや自分が苦しんでいることそのものを意識の外に締め出し、自己防衛のため本能的に無感覚になっている子供たちがどれほどいるだろうか。
 ヴェガがうたういまの「Luka」は、我々の身近にいるまた別のルカだ。33年経って、ルカはより近くで息をころしている。

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