ショートショート・『ス、ス、スイートロコモーション』
無人駅のホームに降り立つと、冷たい雨が顔に当たり、ボクは急いで傘を開いた。駅の屋根は壊れていて、ほとんど雨を防げない。少し離れた車両から、彼女は降り、すぐにびしょ濡れになりながら、黙ってホームの端へと向かって歩いていく。傘も差さず、濡れた髪を無造作にかき上げながら、ただ静かに前を見つめて。
13歳のボクには、彼女がただの同級生以上に、大人びた存在に見えた。
雨が絶え間なく降り注いでいた、けれどボクは、傘をさしたままその場に立ち尽くし、彼女の姿を遠くから見つめていた。
何も言わずに傘を差し出せばいいのに、体が動かなかった。
心の中では、声をかける言葉を探していた。「傘、忘れたの?」そう言って近づけばいいのに、頭の中でそのフレーズが繰り返し響いていたが、実際には一歩も踏み出せなかった。「彼女はどう思うだろう?変な奴だと思われないだろうか?」そんな不安が、ボクをその場に縛り付けていた。
彼女がふと、こちらを振り返った。その時、ほんの一瞬だけ目が合った気がした。彼女の瞳は、何かを求めているようにも見えたし、単に偶然こちらを見ただけかもしれない。逆光に照らされた彼女の輪郭が、雨の中で滲んで見える。その瞬間、ボクはようやく傘を差し出すべきだと決心した。
足が重く感じられながらも、ゆっくりとバス停に向かう彼女を追って歩き出す。
「傘、使う?」
やっとの思いで声をかけた。自分でも驚くほど小さな声だった。彼女が振り返り、ボクを見る。その一瞬、胸の奥で何かが弾けるような感覚が走り、息が詰まりそうになった。
「ありがとう。でももう濡れちゃったし」と彼女は軽く笑って歩き続ける。それでもボクは、勇気を振り絞って傘を彼女の頭上に差し出した。彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、やがて何も言わずにボクの傘の中に入ってきた。
バス停までの短い道が、なぜかやたらと長く感じられた。雨の音が響く中、二人で歩く沈黙が心地よくもあり、少し緊張もしていた。そんな時、彼女がふとつぶやいた。
「ス、ス、スイートロコモーション?」
まるで口から滑り出たようなその一言。それが歌の一節なのか、冗談なのか分からなかったが、不思議とその言葉がボクの胸にじんわりと残った。
バス停に着くと、ボクは少し緊張しながら「LINE、交換しない?」と声をかけた。
彼女は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに笑ってスマホを取り出してくれた。その瞬間、ボクはどこかでホッとしたような、けれど少し期待が膨らんだような気持ちになった。
バスが到着し、彼女は「じゃあ、またね」と手を振りながらバスに乗り込んだ。窓越しに見えた彼女の笑顔が、雨の中でゆっくりと消えていく。その姿を見送りながら、ボクは小さな温かさを胸に感じていた。
その夜、自分の部屋で、スマホを何となく眺めていた。雨の音が窓越しに響いている。昼間の出来事が頭をよぎり、あの
「ス、ス、スイートロコモーション?」
という一言が不思議と心に引っかかっていた。
スマホが振動した。彼女からのメッセージだった。
「今日はありがとう。ス、ス、スイートロコモーションって、知ってる?」その短いメッセージに、自然と笑みがこぼれた。ボクは「知らないけど、今度教えてくれる?」とだけ返した。
しばらくして、「うん、楽しみにしてて」と返事が来た。それだけのやりとりだったが、胸の奥からシュワシュワのサイダーの泡が、それはもう大量に光りながら、内臓から皮膚の外まで漏れ出て、ボクは発光した世界に包まれた。
雨音が静かに響く中、ボクはスマホを置き、軽く息をついた。
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