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仕事考

1969年、M.B.ゴフスタイン 29歳の時の詩作であり絵本でもある ‘ゴールディーのお人形’ は、「子供時代に、人生において価値ある事は、そして本当に幸せなことは、仕事をすることであり、もし何かひたむきに自分を捧げるものがなければ、その人生はつまらないものだと感じていました。黙々と働く人の美しさと尊さを、本の中で表現したい。」と言っているように普遍的とも思える彼女の仕事観が表れています。               そこで、ライフスタイル考、消費考(前節参照)に続き、仕事考について展開したい、ゴフスタインを基に紐解いてみたいと思います。

ゴールディーのお人形

ゴールディーは、小さな木の人形を彫り、その人形に絵具で洋服や顔を描く仕事を、亡くなった父母同様に行い、多くの注文を抱えていました。その仕事ぶりは、森にある木の塊の中から、人形の顔を彫り出そうと祈る様に自然(じねん)の面持ちの態度で仕事に臨みます。生業(なりわい 前述の章参照)の様を見ているようです。
その事は、‘一旦、人形の頭と体が出来上がると、ゴールディーにしか見えない、この小さな人形に責任があるような気がするのです。それで小枝をためてある籠の中から、人形の手足になりたいなと思っている4本の枝を選び出す’ ‘作りかけの人形を作業台に置いておく気になれず、自分の服のポケットに入れて、夕食の支度をします。そして人形よりも手足がカチカチになった頃、ベッドに入ります。ベッドから出るとそのまま作業台に行き、人形を長いこと見つめ、人形が素敵に、暖かく、心地良く、優しい感じになるまで仕事を続け、途中でパンを食べ、お茶を飲み、また仕事をします。そして人形が出来上がると、床を掃き、部屋をきれいにし、体を洗い、髪をとかし、着替え、キチンと座り、手を膝の上にのせ、考えます。’ と言った詩の中の言葉から伺えます。仕事に臨む彼女の態度や生活のリズムは、前節の「消費考」で述べた、暮らしを自らで整え、仕事に臨んだ河井寛次郎や浜田庄司のそれと重なり合います。

ゴフスタイン・捧げる  鈴木大拙・機心(きしん)

ここで西田幾多郎(善の研究 哲学者)と同級生であった鈴木大拙(1870年~1966年 哲学思想家)晩年の著作の一部である ‘機心ということ’ に触れたい。(ゴールディーのお人形と程同年代)原文は、‘機械ある者は必ず機事(からくり事 巧みな行い)あり。機事ある者は必ず機心あり。機心、胸中に存すれば、即ち純白備わらず。純白備わらざれば、即ち神生(性)定まらず。神生(性)定まらざる者は、道の載せざる所なり。’とあります。これは、農夫が水を井戸から手を使って酌みだし、畑に撒いている所を見て、何故、釣瓶を利用しないのか? と問うた折、農夫は ‘何でも機械に頼る者には、機心(きしん)がある。この機心を自分は嫌う故、それを利用しない’ と答えたとあります。この事を指し、機械に頼ると、その働きの成績にのみ心を捕らわれる。早く効が上がれとか、多くの仕事が出来るようにとか、自分の力は出来るだけ節約したいとか、経済的には少しの資本で多大の利益を占めたい等、と言う事になる。これは、霊性的方面の生活から見ると、最も不純白な行動と見られる。と論じています。(1966年読売新聞コラム)


機心とは、マルクスが透視した資本主義の前では、自然物の代謝物は売れる商品と化し、商品化は不断の運動であり、人の労働も資本増の為、商品となっていく。これに対し、人の労働をコモンズとし、それが失われないよう、人と労働の自律自立を説いたものであり、また、人は私である以上、エゴを持ち、エゴの肥大化は資本主義に取込まれ更に肥大化していくことを意味し、私→エゴ→脱私→自由・自在を説いているものと考えます。
一方、ゴフスタインは、ゴールディーのお人形の中で、ゴールディーと彼女の友人である大工のオームスとの会話の中で、こう言わしめています。

オームス   どうして君は、僕の大工仕事の残りに出る木っ端を材料に使わないんだい?君の両親はいつも僕
       のところから出る木を使ってくれたよ。その方が手間が省けると思うし。

ゴールディー それは、私も覚えているわ。でも私には父さんが、どうしてそれで良かったのかが分からないの。
       うまく言えないけど、それだと本物のような気がしないの。彫っていても面白くないし、生きているような気がしないのよ。

オームス   生きているって言ったって、ただの人形なんだけどなぁ、

ゴールディー わかっているわ。でも私にとっては、ただの人形じゃないのよ。小さな女の子達にとっても、ただの人形じゃ・・・・・。

そして、物語りの最後に、私の家、ここは私の家だわ! ここには仕事に使うナイフとランプとお茶、ベッドと
作業台と材料の木のある家。私はここで、会ったことのない友達の為に、小さな木の人形を作る。ゴールディー
は、とても幸せでした。と結ばれています。

ここからは、大拙の言う所の ‘機心’ 、マルクスの言う所の ‘人とその労働のコモンズ化’ を通じて、ゴフスタインは、仕事→自立、自由・自在←捧げる、つまり仕事とは、自らを捧げるものであり、そこに自身の自由自在を感じ、やがて自立した世界を作る。だから仕事は尊く美しいものであると説いていると考えます。                           私も自我も没却して仕事に献身する(捧げる)ことが、その仕事の達成を通じて、永遠の自我、私を生かす道であると当時(1919年)の講演で説いた。マックス・ウェーバー(1864~1920 ドイツ人 社会学者)とも通底するものです。

祈り、捧げる。 機心(きしん)無きもの、私心(ししん)無きもの。
祈り、捧げる。 自在(自由)有りしもの、自立有りしもの。
祈り、捧げる。 これが仕事、自然(じねん)な仕事。
祈り、捧げる仕事。それは資本主義の夜空にキラリと光る金色の星。
だから・・・・。だから・・・・。
星は迷った時の道案内、道しるべ。


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