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世界考

ジャン・ボードリヤール 住む世界

1968年 ‘物の体系’ ‘記号の消費’を著したフランスの社会学者であるジャン・ボードリヤール。この本は後に‘消費社会の神話と構造’(以前の章参照)の著述へとつながり、ピエール・ブルデュー(以前の章参照)らにも影響を 与えています。ボードリヤールは、人類が花や動物の種を分類したように、次々と需要が増え、また消えていく日常のものを分類しようと試みます。 そこで、飛行機は安全性、速度、効率と言った機能上の理由から、具体的な技術が産む産物を必要としている。技術の発達が生産と真っ直ぐな線をたどる。しかし自動車は、技術上の装置を維持しながら、形の戯れの中で消尽してしまう。そして再び再生産される。日常的な物の体系を説明するのに、技術の分析が役に立たない事は、明らかである。今や、技術を離れ二次的な意味作用の方へ向かうこと、つまり、技術の体系から文化の体系へ向かう認識が、人間が物と関わるプロセスと、その結果生じてくる人間の行動と関係の体系(意味の体系)を明らかとする。その対象は、自動車、家、家具、インテリア、ガジェット(工業生活用品)に及ぶものである。と当時に言っています。
ここから、日常生活に使用する物々を対象とした場合、生産から消費を見る事だけでなく、消費から生産(=流通から消費)を見た場合。物は物質的な物ではなく、物の持つ意味(記号)を物は持ち、それを人々は見ると言った、人と物の関係性の体系の転回が起こっているとボードリヤールは見ます。今や、当たり前のようですが、当時は、産業、経済、経営に大きな影響を与えました。物の捉え方が180度変わったからです。更に、ボードリヤールは、家具、インテリア、家、車を例に挙げながら、雰囲気、モデルとシリーズをキーワードに、人々が、これらの物を選ぶ意味、記号の文化的意味を説いていきます。
拡がる農園や起伏のある自然を借景としながら、古い農家をモダンにリノベーションした別荘やアンティークの家具、調度品と機能的な家電の組み合わされた室内、元馬舎にはヒストリックな高級オープンスポーツカーや新しい高級4WD車が。(これらはステイタス性が高いと言われているカード会社の定期冊子に、今日でも必ず登場します。)これらは、所有者の社会的威信、スノビズムの記号となり、お金で可能となる社会的地位のシンボル消費だけではなく、血統、家系、称号がイデオロギー的価値を失った今、過去の中での意味(父祖伝来の物々、受け継がれた物々等)が出自の優位性を意味するために、古いもの(シンボルに成り得る家具や車)を合わせる消費となると説いています。この所有者の世界を表す物々をモデル(一部の少数な人々)とし、社会的階級の法的身分、それに伴う権利上の社会的、経済的優越性が無くとも、モデルをシリーズ化することで、理屈上、ものは誰の手にも入るようとなる。今日では、出自の意味は社会階級と言うより文化階級、それはモデルと成り得る物を古くから使っている態度に表れます。時計や車、ファッション等々。モデルは絶対的なものであるが、カーストの中に 閉じているのではなく、シリーズ化することで、モデルの持つ雰囲気、つまり技術的体系よりも文化的体系を目指し、普及していく。(大衆化)物は、鏡である。本当の像を映すものではなく、望ましい像を映す鏡。鏡に拘ると、物は自らの神話、幻想の装飾と成り得る。と記号操作消費を幻想の批判を込めて解説しています。
また、これら記号の表すモデル、シリーズ、雰囲気や記号の求める諸階級、社会的地位からは、例外的なものとして、車、レーシングカーがある。技術的体系から文化的体系へ、物が転回することとは、人間と事物の間の行為が小さくなる、神経筋肉の使用より指先だけの脳の使用へと技術がシフトしていく事となる。よって身体性と機能性を必要とするレーシングカーは、形を戯れる文化的体系の中には入らないと、レーシングカーを例外化することで、シリーズ雰囲気の限界を説き、鏡や記号化する消費社会を批判しているように読めます。ボードリヤールの批評は今日にも当てはまる普遍的なものです。社会的階級、階層が無くなっても、目に見える経済的、一見、目に見えない文化的階級、階層を作り続けている私達。これは、程同時代に社会学のみならず、文学の世界からも起こっていました。


シャルル・ボードレール、三島由紀夫(平岡公威) 住む世界

三島の作品を通じて、その一部からは、シャルル・ボードレール(1821年~1867年 フランス人 美術、音楽、文学批評家)のダンディーを思い起こした若き日の記憶が思い出されます。ダンディーとは、若き当時は使われていた言葉ですが、今ではもはや死語であり、その存在も遠い過去の事なのでしょう。でも、先のボードリヤール‘物の体系’と三島、ボードレールのダンディー、この3つからは、分野は違えど共通な匂いを感じていました。
ダンディーとは概念である。ボードレールは、お金持ちで暇があり、たとえ飽いて無感覚になってしまっていても、幸福の跡をつけて追う他に仕事の無い男、贅沢の中に育てられ、優雅の他には職業を持たない男、こうした男は常に、どんな時代であっても際立った全く別物の風貌を備えていることだろう。ダンディズムとは、一個の漠然たる制度、奇異な制度である、法の外の制度でありつつ、自ら厳しい法を持ち、その権威に服する以上、誰しも厳格な服従を要求される。と定義付けています。
この定義からは、鼻持ちならないダンディー像として、ダンディズムの誤解を招く事になります。しかしダンディーをお金持ち、贅沢な人としたのは、人々は自らの崇拝の対象を、お金を第一の物としているからである、とし、ダンディーは本質的な物の如くお金を渇望しない。何故なら、お金は無際限の信用が効けば間に合うからであるとし、お金の増殖のみが目的化し肥大化する事を下品な情熱だと、ボードレールは言っています。身だしなみや優雅な嗜好は自らの精神の貴族的優越(=特権階級としての貴族性ではなく、人間の誇り、尊厳を代表し、それを脅かすものに対して闘う精神的欲求と解釈出来ます。)の一つの象徴、品位の記号である、とも言っている事は、アイロニーを込めた当時の社会、ブルジョア(新興階級、資本主義)への闘いの姿勢をダンディズムを通じて、ボードレールが見せていると解釈出来ます。従って、ダンディーの仕事は、考える事、美の世界や品位を培養する事、悩む事、抗う事、かくしてお金と時間を、これらのために使う人がダンディー像である、と解釈出来、そうある為の名誉、尊敬への自律が身だしなみやスポーツ、身体鍛錬に表れるが、これらは目的ではなく、ダンディー足る手段に他ならない。ここを理解しないと、ダンディズムへの誤解は解けません。ダンディーは落日、傾く太陽さながらに、忘却のごとく、稀有になっていく(カズオ・イシグロの日の名残りのテーマと重なり合うようですが)、過渡の諸時代に表れるとのボードレールの言は、ダンディズムの精神の普遍性とはかなき美としてのダンディズムを語っているようです。ダンディーは、とりもなおさず、当時の社会が作り出した概念なのです。
文壇のスターであり、末は博士か大臣かと男子出世の様を称して言われていた時代に、学習院から東京帝大へ、そして大蔵官僚となり、やがて作家となる三島は、その経歴を含めスターであった。また三島の作品は私小説と言われていた。つまり物語の主人公は、その物語の主人公と成らざる負えない必然を抱えた三島自身であり、物語の中の現実は三島自身の現実(現実化へのシュミレーション)であると言えよう。
そこで、三島(1925年 昭和元年~1970年 昭和45年没)の出自に関して述べます。戦後のGHQ政策の一環に農地改革と並んで財産税課税があります。三島は豪農(大土地所有者)でも華族の出でもありませんが、財産税の対象の出であったと言われています。(‘禁色’の主人公でもあります)戦前の華族に仕えたエスタブリッシュメントされた階級(貴族ではないが、高学歴、高収入、経済資本、文化資本に恵まれたもの)に属する出であったようです。この階級、階層は社会的な制度では無い故、戦後多くの人々が、そこを目指して頑張ります。(大学入って出世して云々)そのシンボルの一人が大衆にとっては三島自身でもあったのです。一方、三島は、自身の作品に沿いつつ、その位置付けを語る文章も残していますが、それによると‘仮面の告白’は、自身の気質を物語化し、‘禁色’は、更にそれを人生の物語の中に埋めてしまおうと言う不逞な試みを持った。と言っています。自身の気質とは、おそらくホモセクシュアルな嗜好であり、主人公=三島=物語=物語の中に生きる三島の人生と言えるかと思います。つまり、三島は、自らの属するエスタブリッシュメントされた階級の中に生き、文学と言う王国の中から出ようとしない人だったのではないでしょうか。それは、自分の小説は、中産階級以上の人々が読むことを想定している。と言った旨の発言や戦前と変わらない華麗な主人公達‘私の永遠の女性’に記された明治の女性への犯しがたい美の意識等)から伺い知ることが出来ます。彼は、戦後に存在しつつも、戦前に生きた大衆を嫌う世界(物語)の王だったのではないか、と思えます。そして「もはや戦後ではない」と共に、三島の物語、つまり彼自身も終りに向かったのではと思います。ボードレールの落日のダンディズム、ボードリヤールの鏡と記号、身体とレーシングカーを創輝させます。


世界考

ジャン・ボードリヤールの鏡と記号。人は暮らしの豊かさと、他人から見える記号の使い方に懸命となる。そして自分も、その記号が暮らしの豊かさだと益々信ずるようになる。モノやコトの意味を消費する社会に囚われの身となる。消費することで、自らの実在(生きてる感)を確認する。しかし、この架空の私的物語、三流私小説は、少々痛い。記号を相対的優位と信ずる本人の作為性は、かなり痛い。自らの実在は、そんな所にあるの?
それは、あなたのエゴ的な私では?と聞こえてくるから尚痛いのである。 自らの実在は、自らの身体にある。身体を実感出来る現実の実世界にある。始めてみては? 身体実生活を! それはボードリヤールも含め先人達が 言い尽くしているのだが・・・。
シャルル・ボードレールのダンディー。ダンディーは抗う、そして立ち向かう、闘う。ブルジョアの資本主義に、貴族達に。人々を守るべき領主であった貴族は、もはや大土地所有者へと成り下がり、小作農を賃貸料の献上者としか扱わない。彼ら(貴族)はお金に囚われ、誇りを捨てた。彼ら(小作農)は逃げた。新しい領主の元へ。
ブルジョアと言う領主(資本家)の元へ。そして捕らえられた。彼ら(労働者)はお金に囚われ、尊厳を捨てた。
ダンディーは抗う、そして立ち向かう、闘う。これらに対して精神の闘いを挑む。貴族、ブルジョア、けしからんと反旗が上がっている。反旗はいいけど。今の生活、今のお金が!との声も上がっている。ダンディーは闘えるだけのお金持ちだからいいけど、私達は?と声が上がっている。でも、ちょっと待った。ダンディーの闘いは、誇りや尊厳と言った精神の闘いなのだ。制度や、つまり政治的しかも時間のかかる以前の闘いではないのだ。
今こそ見つめよう。私無き自由、自在な生業を! 実在を感じる生業を! コモンズたる生業を! それはボードレールだけではなく、先人達が各々に換言しながら言い尽くしている。ゴフスタインはじめ、大拙、マックス・ウェバー、柳、河井、ハイネ、ソロー、ワーズワース、そしてマルクス(以前の章参照)らが・・・。
同じ齢(45歳)で没した三島と中上(中上健次)。年代は多少違えど、その出自は対照的である二人(三島 東京、エスタブリッシュメント。 中上 和歌山新宮市、被差別)に関して。
あなた(三島)は、エスタブリッシュメントされた記号に満ち、自らの世界を小説に表し、その中を生きた。物語の中で、自らの人生を生きた。まさに人生と言う実在を、小説と言う架空に捧げた人。あなたの人生は物語だから、そこから出られなかった。出る事は終演、実在の終焉だったのでしょう。あなたからは、否定する記号と鏡が、否定する故一層見え、それが華麗に映った故、一層な落日的悲壮を感じます。
あなた(中上)は、路地の実相を小説に表します。想像上の世界をリアルとしようとした三島とは対する身体性を、あなたから感じます。身体のある小説が、たとい物語であっても、架空のものではなく、更に自己のアイデンティティーを、土を掘り起こすように進みます。これが熊野と言う風土に拘った理由なのでしょう。あなたからは実在する生業の誠実さを感じます。


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