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許しの思考、罰の思考

構造
両眼が顔の中央に在るとは、空間を立体的に捉える機能を持つこと。
よって脳の働きは、世界全体を捉えようとする。
これは、自然物や自然の現象等を詳細に、そして想像しつつ、物と物の      相違や相関を分類しつつ、世界全体を知ろうとする、構造を捉えようと      すること。自然のみならず、構造化の対象は、社会もその範疇に入って  くる。以上は、人間の身体と脳の関係性を表したものです。

野生
人類(ホモサピエンス)は、後期旧石器時代(約3年万年前から縄文期に相当する1万年前まで)に現代の私達と同様の脳の構造が完成したと言われています。未開の地の先住民達は、呪術的な思考をし、それは遅れたもので  あり、科学的思考では無い、とする当時の社会認識(常識?)に対し、アプローチや表現手法が異なるだけで、彼らの知性は、今日の私達の脳や思考とある面同等以上のものであり、私達はそれを受け継いでいる、と60年代に  レヴィ・ストロース(フランス 哲学者 社会人類学者)は、「野生の思考」で発表し、従前の哲学、人類学理論を次々と論破します。
彼等(先住民)は、先節で述べました世界の解釈を隠喩、換喩を用い神話を作り、ある時、その神話に異なる神話をくっつけ(ブリコラージュする)、世界の構造化を更に計っていく。その作業は芸術的感覚的とも言える。  これをブリコラ―ジュする、とする旨の書です。(ごく一部の解釈ですが)
これに照らせば、私達も縄文期以降、またはそれ以前からの思考を受け継いでいる。(自覚しているかは別として)と言えましょう。

仏をブリコラージュする
そこで、当時の会話として、定住が権力や格差、やがては支配や国家、更にはエネルギー消費社会を生み出す。それらを敢えて避け、そうならないように移動、遊動の暮らしを我々の先祖は行っていた。  何故なら、人間は元来エゴを持ち、放っておくと欲の権化となるもの。
移動遊動の暮らしをするものの、やはり仲間の中からは、集団を離れようとする者、エゴを主張する者が現れてきたようだ。しかし我々は定住してしまった。人口が増えていく中で、何か適する神が必要だ、そうだ仏教と言う 思想が大陸にあると聞く、これを先祖、氏神様にブリコラージュしたら  どうだろう、上手くいきそうだ、と伝わってくるようです。

あるべき論の末
人間は元々、エゴだし、社会はエゴ化する。しかし一部の人々の祈る気持ちが、やがては人間を許す気持ちに変わるであろう。
一方、神が作った社会は素晴らしいものであり、このスバらしい社会に  あって、人は○○であるべきだ、しかし、一部の人々のエゴ行為が・・・。   やがて他の人々は一部の人々を神に代わって罰するようになるであろう。

前者が、ブリコラージュした仏教なのでは?と思えてきませんか?
移動遊動の民、山人達の思想を受け継ぐ定住民の思想のように      思えてきませんか?
今はどうでしょう、後者は? 諒解と寛容について、考えてみたく    なりませんか?

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