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ベンガルの偉人・まとめ! - - 日本とも関わりの深い「ボースさん」

6月某日のヌーベルミューズのラジオでは、ベンガル人によくある苗字でもある「ゴーシュ」さんや「ボース」さんの話題になった。

そこで、ベンガルの偉人のうち、日本と関わりの深い「ボースさん」について、NAVERまとめのように、補足しておくことにした。

※カタカナ表記は、ベンガル人の発音に近いものにした。
ベンガル語は、長音はほとんど伸ばさず、スの発音はシュに、母音のつかない「ア」は「オ」寄りに聞こえる。

※トップ画像のスケッチは、コルカタ「シャンバザール」の五差路にそびえる、"ネタジ"チャンドラ・ボース像。 まだコルカタの右も左もわからない頃、この像のネタジの顔が向いている方が南、と覚えていたので、何度も迷子にならずに救われた。ネタジありがとうございます。


ラシュ・ビハリ・ボース

世界史があまり得意でない人でも、「戦時中に日本に亡命していたインド人がカレーの作り方を教えたのが、日本初のインドカレーであり、新宿中村屋のカレーのルーツ」という雑学は知っているかもしれない。実際私もそうだったのだが、大戦とインド独立の歴史から見直すと、もっととんでもなく壮大なストーリーを持つ人物だった。

コルカタでも、南部で一番の繁華街から高級住宅地を東西に横断する目抜き通りに「ラシュ・ビハリ・アベニュー」があるくらいに、インド独立の志士として名を残されている。

ちなみに「ラシュ・ベハリ・アベニュー」には、以前シタールの銘工房「ヒレン・ロイ」があったり、ありいろんな音楽情報が入手できるCDショップ「メロディ」があったりと、インド音楽好きにはなにかと縁のある通りである。


・日本では「中村屋のボース」として知られている。

・イギリス統治時代のインド独立運動家。過激なテロ活動。

・当時の英領インド総督チャールズ・ハーディングに爆弾を投げつけたテロの実行犯としてイギリス植民地政府に懸賞金をかけられて指名手配された。タゴールの親戚と偽って船に乗り、日本に亡命した。

・日本においても、独立運動のために活動し続けた。しかしパーティーでインド独立運動の演説を行ったり、日本からインドに武器を大量に送ったりしていたために、日本への密入国がバレて、国外退去命令が出された。

・国家主義運動の草分け的存であり、アジア解放運動も視野に入れていた(侵略のため?とも)頭山満、犬養毅、大川周明らが、追われているボースを援助、パン屋だった新宿中村屋の裏のアトリエにかくまう。身を潜めている間に、中村屋にインドカレーの作り方をおしえた。これが日本初のインドカレー。

・頭山のとりまとめで、中村屋の創業者、相馬夫妻の娘・俊子と結婚(恋愛か?成約か?)。日本に帰化。そのおかげでインドの独立運動に没頭できるようになる。

・大東亜線戦争(太平洋戦争)で日本は、イギリス軍におけるインド人兵を懐柔する工作を仕掛け、戦闘中に捕虜となったインド人兵の中から志願者を募って「インド国民軍」を編成した。ラシュ・ビハリ・ボースはシンガポールで「インド国民軍」と「インド独立連盟」の総裁に就任。

・心労から病気がちとなったビハリ・ボースは強い統率力を維持できなくなり、チャンドラ・ボースを招聘して「インド国民軍」の指揮権を移譲した。シンガポールにおけるインド独立連盟総会において、2人は壇上で固い握手を交わした。

・大戦末期、インド独立をもう少しのところで見ることなく、日本で病死した。



シュバシュ・チャンドラ・ボース

現在でも、インド独立の英雄として大変人気が高く、コルカタの市内にはいたるところにネタジの銅像や壁画がある。
コルカタの玄関口である国際空港は、コルカタが生んだヒーロー「ネタジ」に敬意を表して、ネタジ・スバシュ・チャンドラ・ボース国際空港 - Netaji Subhas Chandra Bose International Airport (NSCBI)という名前がつけられている。

・「ネタジ」という通称で呼ばれる。指導者という意味。

・イギリス統治時代のインド独立運動の英雄。最終的にイギリスがインドから撤退する理由となった「インド国民軍」の指導者。

・ガンディーの「反英非協力運動」には協力したが、「非暴力主義」ではなく「暴力革命」の強い志士。

・第二次大戦でイギリスとドイツの開戦が始まると「インド独立のための絶好の機会」と武装闘争の準備をするも、イギリス官憲に逮捕、収監される。

・仮釈放中に、ソ連やドイツを手を結ぼうとして、ドイツに亡命。「自由インド軍団」の結成や、反英プロパガンダ放送への参加など。

・ドイツとの連携に失敗、今度は大日本帝国と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることをねらう。

・日本が占領下に置いていたシンガポールにラシュ・ビハリ・ボースの後継者として招聘され、潜水艦で東京に到着。「インド独立連盟」総裁、「インド国民軍」最高司令官に就任。本格的な軍隊に拡張し、インパール作戦にも参戦。

・日本の敗戦色が濃くなったため、日本との連携も失敗に。今度はソ連と連携すべく、ソ連軍が占領した満州国へ向かおうとしたが、その航空機が台北から離陸直前に炎上。

・航空機事故で重症となり、インド独立を見ずに死没。最期に「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と告げた。

・ボースの遺骨の大部分は東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺に保管されたが、のちにボースの兄の孫に返還された。現在は同寺院に銅像が祀られている。

・戦後からしばらくの間、世界各地でボースの目撃情報が相次いで伝えられていて、「生存説」や、「遺骨は他人のもの説」があった。

潜水艦で日本に上陸してからのシーンは2時間10分〜


アマー・ゴパル・ボーズ

誰もが知っている高品質スピーカーのBOSE。「BOSEのボーズさんは、ベンガル人なんだよ」と教えてくれたのは、コルカタ滞在中にいつもお世話になっている友人のボースさんだった。

ベンガル人といっても、実際にはアメリカ生まれのインド系アメリカ人だ。お父さんがインド独立運動家。父の故郷コルカタに帰ったことはあるのだろうか? アメリカに移住した移民の子孫で著名という点では、日系でいえばイサム・ノグチみたいな感じだろうか。

ちなみに、コルカタの高級ショッピングモールの中にも、大きなBOSE Shop がある。


・インド・ベンガル系アメリカ人。フィラデルフィア生まれ。

・父親はベンガル人、母親はアメリカ人。父親のナニ・ゴパル・ボースは、反イギリスの革命家で、政治活動によって何度も投獄され、イギリスの植民地警察による逮捕を避けるためにカルカッタからアメリカに亡命した。

・少年ボーズは電気工学と電子工学の分野に興味を持ち、ラジオの組み立てや修理をやっていた。

・第二次世界大戦中、家計を支えるために、13歳のボースは家庭用ラジオを修理する会社を設立。そのビジネスはフィラデルフィアでNo.1となった。

・マサチューセッツ工科大学に入学し、1950年代初頭に電気工学の学士号を取得。

・音響工学はもちろんのこと、物理学や材料工学、流体力学、空気力学といった一見音響とは関係なさそうな方向も研究し、独自の音響理論の確立。

・マサチューセッツ工科大学の研究室の一室にBOSE社を設立。 コンサートホールの臨場感を再現するスピーカーを開発した。


このBOSE・3偉人は、イギリスからのインド独立運動に関係している、という点でも共通している。この激動の時代に、インドはたくさんのヒーローを生み、今でも称えられていることがわかる。


ちなみに、、、ここまで書いたらもう一人、「ボースさん」ではないが、同じ時代背景の、日本と関わりの深いベンガル人としては、パール判事も上げておかねばならない気がしてくる。

東京裁判(極東国際軍事裁判)で、11カ国の裁判官のうち唯一、A級戦犯の有罪判決に異議を唱えた判事だ。結局は過半数で死刑判決になるのだけれど。
モディ首相のスピーチで語られたりと、日本とインドの友好を語る上で取り上げられることが多いが、実際は日本の戦争責任がどうこうの以前に、「真理」を貫き、徹底的に平等を主張したのであって、この信念はすごい。


「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」

「過去の一切があやまりであったという罪悪感に陥り、バックボーンを抜かれて無気力になってしまった」(裁判後)



https://www.netflix.com/jp/title/80091880


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