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『羅生門』

画像引用:角川映画『羅生門 デジタル完全版』より


『羅生門』を観る。
緊張のせいか、終わってみると椅子に座った体がガチガチに強張っていた。
それほど神経症的な映画だと思う。
サリンジャーの小説みたいなヒステリーへと導かれる予感。

テーマはやはり名誉(尊厳)と倫理か。

登場人物で「高笑い」をするのは三人。
多襄丸と女と冒頭でやってくる男。
これらの高笑い三人に共通するのは、崩壊した尊厳である。
高笑いは心の底から笑っているのではなく、笑っていないとやってられない計算づくのもの。
名の知れた多襄丸は女の「お前なんか男でない」という一言でセルフイメージが脅かされ、震える手で半狂乱に武士を斬り殺すが、ボディーブローのように響いてくる女の一言に馬から降りて苦しむほどになる(自分で言う通り「この多襄丸が」なのである)。
彼の高笑いはどこか豪快な悪人の定型をなぞっているよう。

女は女で手篭めにされた挙句、夫と盗人に「よく考えりゃ別に大事にするような女じゃねーや」と捨てられる。
夫の方も状況に狼狽しながら、最後は命乞いするも絶命。

検非違使の前で証言した三人(杣売りも含めると四人)は全員自分の名誉の為に嘘をつく。
それぞれ自分のあるべき姿、理想像の回復を狙う偽証。
多襄丸は剛毅な盗賊を演じ、女は無垢を演じ、武士は妻を手篭めにされて苦しむ夫を演じる。

羅生門にいる三人は人間に対する信頼を表している。
信じようとする立場の法師。
信じられない、この世はまさに地獄と豪語する男。
その間で揺れる杣売り。

しかし、ここにも懐疑の念が伏流する。
法師の「人間を信じる」との言葉も自分に対して言い聞かせているよう見えるほど神経症的だし、「わからない」と繰り返す杣売りも終盤に女の笠を売ったことがわかる。
男も自分の罪を棚上げする為に他人の罪を指したり、執拗に揚げ足を取ろうとする。
終わりのない信頼と不信の葛藤。

ラストシーンで不信の気分と同調する雨が止む。
法師と杣売りはわかりあえるが、ディセントな人の間だけに信頼は成り立つのかもしれない。
崩れかけた羅生門は「崩壊寸前にある人間の尊厳と倫理」のメタファーと僕はみる。

しかし、まあ黒澤監督に逆らって「ムツカシク」観てしまった気がする。

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