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韓国映画『チェイサー』

画像引用:映画.com 映画『チェイサー』(2008)より

いいよね、韓国映画。
今回はNetflixにあった『チェイサー』。
キム・ユンソクが人を脅すと、後のシーンにも怒りのテンションが持続する。
不思議である。

救いのないパターンの『アジョシ』かな。
ストーリーは違うけれど。

刑事の誤謬とでも言おうか。
犯人や証拠はすぐそこにある。
追跡者はその対象(犯人)を追うために最後まで取り逃がしてしまう話。
捕まえるためには犯人自身を追うのではなく、犯人が追うものを、見ているものを追うべきなのか。
僕はこの映画を観ている最中に「この映画が言わんとしていること」がわからなかった。ストーリーだけを追っていくと救いのない話であるし、メタファーも見出せない。
僕たちが通常見出そうとする「意味の一本線」を拒否する。
なかなか手ごわい作り。

こういう場合は疑問の次数を一つあげることにする。
遠回りで話が早くなることもある。
映画のカテゴライズ、観客による意味づけを拒否するということから僕は観客による一方的な分析ではなく、映画と観客を相対的に見てみようと思う。
この映画を観ながら、僕たちが抱く感情はなんだろうか?
苛立ち、だと僕は思う。

この映画で韓国警察はほとんど無能で役に立つことはない。
ジュンホも元刑事なので同じように無能っぷりを発揮する。
次第に警察と主人公の右往左往に僕たちは苛立ちを募らせていく。

僕たち観客は肘掛を握り、この結果の出ないもどかしさを共有する。

「なにやってんだ。ミジンを優先するだろう、そこは。」
「電話に早く出ろ!気づけ!」

しかし、ここで観客も元刑事、警察、犯人と同様の過ちを犯していることに気づかない。
つまり共通点は「我慢がきかない」こと。
犯人は女を前にして性的に不能であるもどかしさに耐えきれず、その苛立ちから鑿と金槌でヘルス嬢を殺害する。
ジュンホ(元刑事)は犯人にミジンの居場所を吐かせようとするが、これもいわゆる「足を使う」ような地道さはなく、終始苛立ってもどかしさから暴力に訴える。

警察も同様だ。
あれやこれやと捜査方法を切り替え、「ここを掘れ、あっちを探せ」と最後の被害者であるミジンを探そうとせず、逮捕を優先する。
成果を出そうと焦るあまり犯人を釈放してしまう結果になる。
誰も彼もが苛立っている。

犯人を追い詰められそうなシーンは二つある。
そして、そのシーンに苛立つキャラクターの姿はない。
一つはジュンホの舎弟が犯人の寝泊まりしていた場所を見つけるシーン。
舎弟が「足を使って」ヒントが見つかるが、ジュンホはそれを見落としてしまう。
ここできっとジュンホは違和感を持ったはずである。

もう一つは取り調べのシーン。
取り調べ官がヘルス嬢を殺すのは性的な代替行為だと言うと、犯人は明らかに動揺する。
この動揺を突けば、あるいは彼の証言を引き出せたかもしれない。

しかし、観客の希望は無残に打ち砕かれる。
希望が打ち砕かれるとき、我々の気分はスクリーンと同様に彩度を失う。
あとは投げやりで低体温な気分で観賞することになる。
「もどかしさに耐えて、地道に足をつかって積み上げろ。」
僕にはそんなメッセージが聞き取れた。

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