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非哲学者による非哲学者のための読書会・受講生感想

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 「言葉を大切にしなさい。言葉を侮辱してはならない」。そう私に教えたのは小澤俊夫先生で、私はいつも優しい語り口の小澤先生がそれを言うときだけは強く緊張感を持って伝えるのを聞き、そうあろうと誓い続けてきた。筑波大教授・昔ばなし研究所所長の小澤先生の講義や講演、著作を見聞きし続けてきた私はその時々で色んなことを小澤先生から教えていただいたけれど、その言葉は何年間も同じように繰り返されていた。
 だから、リチャード・ローティの「人間や社会とは、受肉したボキャブラリーである」というテーゼを知った私はますます言葉偏重主義になり、もはや「言葉を軽く扱う奴は人に非ず」くらいの過激派になりつつあった。

 その私の偏狭さに歯止めをかけてくれたのが、「酒井泰斗・吉川浩満『非哲学者による非哲学者のための読書会』」である。元々吉川浩満さんの大ファンであった私は、大ファンを自称するくせにイマイチご著書を理解することが出来ていなくて、この読書会に行けばもっと吉川さんの本が読めるようになるのでは!? という期待を込めて参加したのだ。しかし、そこに待ち受けていたのは「酒井泰斗」という後に私の超自我の一端を形成する魔物だった。

 この読書会では、常に「そこに何が書かれているのか」を検討する。著者はその箇所で何を行なっているのか、それは本書全体でどのような立ち位置を持つか、それらを(文書を理解できていなくとも)読めば誰でも言えることを資源として用いながら提示することが求められる。読書会って「すごく共感しました!」とか「この箇所、痺れるよね!」みたいな感想戦だと思っていた私は度肝を抜かれた。今でも度肝を抜かれ続け肝が幾つあっても足りない、みたいなこの読書会の詳細は文學界の連載に譲ろう。私は酒井講師と吉川講師から本の読み方を通して、仰々しく聞こえるかもしれないけれど人生に対する姿勢を教わったと思っている。少なくとも私はずっと楽に本が読めるようになり、わずかながら寛容になった気がする。

 酒井講師は初回でこう言った。「本との付き合い方は人との付き合い方と同じだ。優れた本としか付き合いたくないなんて優生思想と同じである。拙い本こそ己を鍛える」。衝撃だった。優れた本しか読みたくないと当たり前のように思っていた。毎日300冊は刊行され続ける書物という迷宮の中で、自分が一生のうちに読める本は限られている。ならば駄作を読む暇などない。村上春樹の小説の登場人物だって、「出版されてから10年経ってもなお評価の高い本しか読むに値しない。時の経過に耐えた本こそが読むべき本である」と言っていた。
 唖然とする私に酒井講師はこう続けた。「日本語話者ではない者の拙い日本語は聞くに値しないのか。語彙に乏しい幼児の言葉は聞くに値しないのか。それらの者の話す内容を理解しようと努めるのは当然なのに、なぜ本だとそうしないのか」。初回で参りましたと頭を垂れそうになった。全くその通りだと思う。そして今までの私の読書傾向を反省し自分を恥ずかしく思った。

 私は今まで、「わかりそうでわからないけれどエモくて名言ぽい文章」というのを嫌ってきた。私にとってそのような文章はお寺の入り口に張り出されているスローガンみたいなもので、僧侶は深く緻密に仏典に当たった上で導き出した一文なのだろうけれど、スローガンばかりをコピペして構成されたようなエモい本を毛嫌いしてきた。「本を書くならわかるように書け」。私はそれしか思っていなかったのだ。
 けれど酒井講師は「何かが『わからない』と思うのは、他に『わかっている』ことがあるからだ」と教えてくれた。その様に読むと、私がなぜ「わからない」と思うのかは明白だった。ほとんどの場合、私は「わかること」、つまり理解を拒否していたのである。
 理解を拒否する理由は全て私の個人的なバイアスに依り、もっとハッキリ言えば自己正当化のためだった。自分の意見と違うから、この著者の文体が気に食わないから、この著者が嫌いだから。実際、自分に何がわかっているのかを検討すれば、それを足がかりに著者が何を行なっているかが見えてくる。私が理解を拒否した文章たちが、実は私とは違うスタンスの効果を狙って書かれていることも見えてきた。エモくて名言ぽいとしか思っていなかった書き方は、読者の想像力を掻き立て消極的なアジテーションをすること。そのように書くと読者の門戸が広がること。私にとっては実に大きなアハ体験だった。

 私はこのアハ体験に慄き、即座に吉川講師に尋ねた。「本を書くときはこのような書き方をした方が良いのでしょうか!?」。すると吉川講師はゆったりと苦笑を浮かべながら、私の短絡的で大雑把な質問に正面から答えてくれたのだ。「大袈裟な言い方になって恐縮ですが、それは人生の選択の問題です」。「『どのような自分がイケているか』。それをどう考えるかによって、書き方はおのずと異なってくるでしょう」。実に吉川講師らしい懐の広い返答だと思い、私は心底納得した。

 本との付き合い方は人との付き合い方と同じなのだと改めて思う。そして、自分がこれからどのように人と付き合って生きていくのかを私は今問い直している。
 自分の「わかる」に固執し他人の違いを認めなかったり、他人の意見に反対するための理由を説明することを放棄し「わからない」で排除しようとしていたり。少なくとも今までの私はそう読んできた。私は自分の言葉を正当化するのに必死で、「他人の」言葉を大切にしてこず、侮辱さえしたのだ。小澤先生から幾度も聞いた教えを、私は私に都合の良いように捻じ曲げて、真逆のことをしてきたのだとようやく思い至った。

 酒井講師と吉川講師の読書会では、参加前に詳細な自己紹介のテキスト提出が求められる。受講生のことをわかろうと、知ろうとしてくれるから。共有されたその自己紹介のバリエーションの豊富さに驚きながら、皆とどんな話が出来るのかと次回が待ち遠しい。私は今まで聞いた幾つもの教えやテーゼは矛盾なく両立すると考えている。そしてそう考える自分が以前よりはまだイケていると思う。

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