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幸せになっていい

子供の頃からお祭が苦手だった。
町内会のイベントで連れて行ってもらったディズニーランドも、楽しいけど不安。
周りの皆が楽しそうにうきうきしている状態の中に放り込まれると得体の知れない不安に襲われた。

楽しいことや嬉しいことの後には嫌なことが起こるような気がして、それが不安で「今」の楽しさに集中できない。
良いことの後に嫌なことがセットで起こるくらいなら、何も起こらない方が安心できた。
お祭もディズニーランドも早く帰りたい。
そういう子供だった。

今は戦争のない国に生まれて、衣食住に困らず、家族にはおそらく愛されていた。
客観的に見たらそれだけで随分と幸運で幸せで贅沢なことだ。
でも何故か自分は幸せになれないとずっと思っていた。
幸せになってはいけない、の方が近いかもしれない。
幸せになったらその後に酷いことが起こる。
代わりに何を差し出さないといけないのか考えたら幸せになることは恐怖だった。
気持ちがはしゃいだり浮かれたりしそうになると制御する癖が付いていた。

似たような気持ちの人は、何故かなんとなく分かった。
大槻ケンヂの小説と鬼龍院翔の歌詞からは勝手に同じ匂いを感じた。

でも大人になって、だいぶ大人になって、ずっとその心持ちでいるのはしんどいなと思い始めた。
ハッピーを抑え続けるにしては人生は長過ぎるし、この世界には素敵なことが多過ぎないだろうか?
エリック・バーンの人生脚本という概念を知り、自分の足枷は自分が嵌めた、もしくはそもそも足枷なんてないのではないかと思い始めた。

ある種の人間にとって幸せになることは大変に勇気が要る。
7年前に結婚を決めたとき、母親に「自分は幸せになれないと思っていた」と打ち明けた。
母親は「知ってたよ」と言った。「でもあなたがどうしてそう思うようになったのかは分からない」と。
私自身にもそれは分からなかった。
素晴らしい出来事の後に、それが台無しになるような、その後の人生に影響が出るほど酷い出来事が起きたことが実際にあっただろうか。
思い出せる限り、そのような経験はなかった。とすると生まれつきの思考の癖のようなものなのだろうか。

結婚は、当然それで何かが解決するわけではなく、自分の人生は続いていく。
ただ、不安に打ち勝ち勇気を持って行動したことだけがほんの少し自信になった。


朝、出勤前に好きな下着を選び、お気に入りの服とアクセサリーを身に付ける。
先週この服を着て仕事に行ったら、嫌なことがあったな。そんな記憶が頭をよぎる。そのときは、朝の服選びの際の弾んだ気持ちが台無しになったような気がしてしまった。
もし今日もまた嫌なことがあったら、今の気分が台無しになったら、嫌だな。ごきげんに緩んだ気持ちを引き締めかけて、もうそういうのはやめようと、ふとその日、思った。

もしも5分後に嫌なことが起こるとしても、今の弾んだ気持ちが台無しになるわけじゃない。今、なんとなくごきげんなこの気持ちを押し殺したくない。大切にしたい。

幸せになるために何かを差し出す必要なんて、多分ないのだと思う。
幸せも喜びも、いつも「今」ここにある。

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