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好きな食べ物を好きな理由に「美味しいから」以上の理由はない。

食べ物にだっていろんな要素があって、味、触感、臭いみたいな「美味しさ」に直結する部分はもちろん、量、見た目、値段、栄養、あるいは印象なんてものも関連する要素として数えて良いかもしれません。
しかし、この中で好きな食べ物を好きだと言える「理由」になり得るのはいわゆる「美味しさ」に直結するものだけではないでしょうか。

どういうことかって?
「好きな食べ物は青汁です! 身体に良いからです!」
なんて答える奴はいねーって話ですよ。

はい。というわけで今回も始まりました。いしころです。
それっぽいことを言ってみようのコーナーですね。

僕は創作をやっているので、どうしても人の感想というものが気になってしまいます。
何が好きとか、何が嫌いとか、そういうのが非常に気になるんです。
ただ、だからと言って学校で書かされる作文のようにどの部分がどうなっているから、どう好きなのか、あるいは嫌いなのかなんて詳細は求めていません。
だって、あんたら素人じゃん。

そもそも、プロの評論家だって100%信用できるものではありません。
人には人の好みがあって、価値基準が違えば良し悪しなんて簡単にひっくり返る。
ラーメン評論家の話なんて全然信用できないですからね。
食生活と共に考え方も偏ってんですよ。(この二文が何よりの偏見)
それでもプロと呼ばれる(人がいるのかは知りませんが)評論家が成り立っているのは、言語化能力があるからなんです。
自分の感じたことを、できる限り多くの人に伝わるように、かつ正確に書き起こすことができる。
それを読んだ人は自分の抱いた感情との共通点を、あるいは相違点を分かりやすく見つけることができる。
それが彼らが存在する価値です。

では、素人はどうでしょうか。
自分の中に生まれた感情やその動きを正確に書き起こすことができるでしょうか。まして、何を見たのか、聞いたのか、体験したのかって部分と紐づけることができるでしょうか。
僕は無理じゃないかなって思います。
もちろん、全ての人がそうだとは言いませんよ。統計的な話です。
でも、完璧にとは言わないまでも、この作業をハイレベルで行える人はなかなかいないのではないでしょうか。

何だかこのままだと言いがかりっぽくなってしまうので、もう少し根拠を話しましょう。
上記の作業には豊富な語彙が必要です。それから、大量の語彙から適切な単語を選ぶ能力も。
その上で、感情を抑えつける強力な理性が必要です。
好きにしろ、嫌いにしろ、強い感情は思考を乱しますから。
オタクが推しをプレゼンするのが下手なのはこのせいですね。
感情的になった時点で説得力がなくなってしまうんです。

で、何が話したいのってところなんですが、つまるところ「美味しいから好き!」以上を一般人に求めるのは酷じゃないですか? ってことを僕は言いたいんです。

そんな酷なことをやらなくても良くないですか? って言いたいんです。

特に、嫌いなものを語るとき。
無理矢理にでも理由をつけて嫌いなものを否定しているのをみると、そこまでしなくても良いのに、と思います。

好きなものを好きと言うのに理由は要らないし、嫌いなものを嫌いと言うのに理由は要らない。
無理に自分の心を既存の言葉に当てはめなくて良い。
なんかよく分かんないけど、好き。
なんかよく分かんないけど、嫌い。

それで十分じゃないですか?

よく分かんないけど不快なことについてずっと考えて、言葉にして、でもなんか違うからともっと考えて。
そんなことしたって、嫌な気分になるだけじゃないですか。
聞いてる方だって気分悪いですよ。
それがたとえ嫌いなものだったとしても、不適切な貶され方をしていたら嫌ですもん。
なんでかって?
そんなん知らん。
嫌なもんは嫌じゃ。

だから、好きな食べ物を好きな理由に「美味しいから」以上の理由は要らないんです。
好きな小説は面白いから好きで、好きな景色は綺麗だから好きで、好きな人は好きだから好き。
嫌いな食べ物は不味いから嫌いで、嫌いな映画はつまらないから嫌いで、嫌いな人は嫌いだから嫌い。

人を例に出しましたが、好きな人がやるのと嫌いな人がやるのでは受け取り方が違うことってありますよね。
順序が逆なんです。
要素があって好きになるんじゃない。
好きだから要素が良く見える。
嫌いだから要素が悪く見える。
そういう現象があって、何を言うかではなく誰が言うかが重視される。
そんな世の中で、嫌いなものの嫌いな部分を考えては納得できず、あそこが嫌、ここも嫌、やっぱりこれが一番嫌。
馬鹿らしくなってきます。

僕の仕事が良いものを作ることではないように、一般人が好き嫌いに理由を見出すのも本来はやることじゃない。
実際の仕事だったら自分の仕事の範疇外と思えるようなことまでやっておいた方が良い、なんてこともあるかもしれませんが、人生においてマイナスな感情のために不必要な労力を割くのは無駄としか言いようがありませんからね。

もちろん、無駄なのが悪いとは言っていません。
無駄があっての人間です。
無駄だと思っていたものがいつの日か役に立つことだってあります。(無駄が役に立つならそれは無駄じゃない理論もありますが)

僕の意見の芯の部分は、どうせエネルギーを使うなら、どうせ口に出すのなら、プラスのことの方が良くないですか? ってことです。
いや、違いますね。
もっと単純な話で、僕が非合理を許せなかっただけです。
嫌いなものについてどこが嫌いとかどこがキモいとか言ってる内容があまりにも的外れなもので腹が立ったというだけです。
作品を見ただけなのに作者を引き合いに出して気持ち悪いとか何とか言ってるのを聞きたくなかっただけです。
なぜだか知りませんが、何かを貶しているときの人間ってすごい熱量ですからね。聞いてて辛いんですよ。

なんて、語ってきましたが、今回の内容はきっと意見が割れるところでしょうね。批判されることで伸びると考えている人もいるでしょうから。
ただ、それが正しい批判なら良いですけど、的外れな批判だったらどうするんでしょうか。
そもそも、批判内容が正しいとか正しくないって誰が決めるんでしょうか。
正しくなかったら批判しちゃいけないんでしょうか。
って。
また別の議論が始まってしまいそうです。

ここは僕の思考を放り投げておく場所なので議論の余地なく締めていきます。
今回、僕がここまで書いてこれた原動力は「嫌いだからと言ってこじつけのようなものまで持ち出してたこ殴りにしている姿は醜く、それを見ているこちらが不快だ」ということ。
無理に良いところを探せと言ってるわけではありません。
ただ、お前の言語能力を疑えってことです。
無知の知、なんて言葉があるように、自分の感情が実は自分の持つ語彙では容易に説明ができないことを知る。
そうすることで、胸に抱いた感情をありのままの姿で受け止めることができるんじゃないでしょうか。

と、言いつつ僕は言葉にできないのが悔しいので語彙を増やす努力はしようと思ってるんですけどね。
抜け駆けとは言うまいな。

と、いったところで今回はここまで。
ちょっと、一記事の中で内容が被るパートがたくさんあったね。
ごめんね。文字数の最低ラインを決めてるからこういうことになるんだ。
結局、大幅に超えてるのにね。

それでは、また!

画像は貧乏人のパスタって言われている食べ物。
実際は卵二つ使う贅沢仕様。いや、卵ってそこまで高くないから贅沢ってわけでもないか。
貧乏でも贅沢でないならこいつはなんだ。ただのパスタか。
とりあえずおいしいことだけは確かだ。
しかし卵を焼く時の油跳ねがひどくてとてもじゃないけどまた作ろうとは思えなかった。
誰か作ってくれ。いや、そこまでして食べたいほどでもなかったな。
所詮は賄い飯。
何だか可哀そうになってきたので、今度また作ってやろうと思います。
待ってろよ。

Next→次を書く自分。

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