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「ちゃんと」する

……って、なんだ?
この始まり方、前にもやった気がします。
だからと言って変える気はない。
なんとなーく多くの人に共有されている「ちゃんと」のイメージ、その正体が何なのか、今回はそれが気になってしまったという話です。

というわけで、こんにちは、いしころです。
いやぁ、久しぶりですね。noteの更新をするのもそうですが、そもそもこうして文章を書くの自体が相当久しぶりな気がします。なんだかずっと時間がなくて……
いや、あったんでしょうけど、ここ数か月はそこにあったはずの時間を上手いこと使えていなかった気がします。
夜は惰性で起きていないでさっさと寝て、午前中にあれこれタスクを片付けた方が良いんでしょうね。
そうやって、「ちゃんと」するべきなんです。きっと。

おっと、不意に出てきましたね、今回のメインテーマ「ちゃんと」する。
多くの人が当たり前のように使っているのに、改めて考えてみると定義やイメージが曖昧な言葉ですね。
だから、気になる。
その正体が。
曖昧なくせして目指すべき模範とされていることが。

ならば、明かして見せよう。
……あ、いや、明かすとまではいかないと思う。
というか、改めてこんなことを書く必要はないのだけれど、一応言っておくとこの文章はあくまで僕個人の考えであって、そりゃ賛同者がいたらうれしいけど、異論反論はあって然るべきもので、つまりは絶対の正解ではないってことを念頭に読んでくれよなっ!

ということで本題、「ちゃんと」するの正体とは何ぞや。
結論から言うと、はっきりとは分からねぇ、ってのが正直なところです。
だって、これはある種の既成概念というか、プロパガンダと言うか、大衆のイメージの集合体なわけで、定義付けようにも流動的すぎるんですもん。
勝手にここで言う「ちゃんと」とは、って定義をしても良いんですけど、それは「ちゃんと」の中の一つに過ぎず、その集合体が本来の「ちゃんと」である以上、全く意味のない定義になってしまうのでやりません。
結局、正体は曖昧なまま、明瞭にするのは諦めて、その諦めの上にできる限りの寄り添いを見せましょう。

まず、具体的にはどんな人が、あるいは行動が「ちゃんと」していると言われるのか、例を挙げてみましょう。
流石に語義が広すぎて一部抜粋みたいな形になっちゃうのですが、まぁなんとなく言いたいことは伝わるよねってことで、どうぞ。
「自立している」「自律している」「ルールを守れる」「モラルやマナーが身についてる」「仕事ができる」「話ができる」「話を聞ける」「努力をしている」「小綺麗」「時間を守れる」「勉強ができる」「義理堅い」エトセトラエトセトラ……

挙げ出したらキリがないですね。
パッと思いつくだけでもまだまだありますからね。
さて、これだけ例示をして思ったのですが、何の気なしに上に書いていた「目指すべき模範」って言葉、なかなか的を射ているのではないでしょうか。
なんだか重複表現っぽい気もしますがnoteでまでそんなことを細かく気にしていたくないのでもう書いちゃったことだしこのまま話を続けますね。
模範とか規範とか手本とか、見習うべきものという意味の言葉ですけれども、それが具体例を上手いこと抽象化した言葉のように見えるんですよね。
これが「ちゃんと」の正体か……?

ただ、ここでまた思考が巡るんですけど、抽象化しているので、これを「正体」と言うのにはいささか抵抗があります。
語義の広い言葉の意味なんてそんなもんなのですが、具体的にどんな状態が「ちゃんと」なのかを知りたくて考え始めた身としては、ここで思考をやめて納得してしまうわけにはいかないんです。

それと、規範と言っても、なんというか、法とかルールとかマナーとかモラルみたいな形態づけられたものではない、何かがある気がするんです。
もっと別のベクトルの、例えば、そう、「幸せ」とか。

バチーン

ハマりました。
見えましたよ。
人々は「ちゃんと」しているのを美徳とする。
それはなぜか。
その先の幸せを見ているから。
これは絶対ではないが、おそらく統計的に、あるいはそんな事実はなくても直感的に、「ちゃんと」している人は幸せになる。
そういう思想があるのではないでしょうか。
いや、そうあってほしいという願いでしょうか。

規範に沿って生きる=正しい行いをすることで、人は幸せになれる。
情けは人の為ならず、とか言いますもんね。
善行は自分に返ってくると。
実際にそういうことがあるのは事実でしょう。論理的に考えてもこの言葉は間違っていないと思います。
ただ、幸せになれると妄信すること、もっと言うと自分は幸せになるべき存在だと考えること、あるいは幸せにならなければならないと考えること。
そうやって囚われている人もいるのではないでしょうか。
幸福は見出すもの、与えられる幸せもありますが、見つけに行かないといつまで経っても満たされないままです。

さて、ちょっと逸れたので戻しましょう。
人々は「ちゃんと」する先に幸福を見る。
それは「ちゃんと」するの正体が幸福であることとしても良いのではないでしょうか。
あるいは、「ちゃんと」しないと不幸が待っているから、それを避ける気持ちが正体なのかもしれません。
分かっていますよ、ちょっと乱暴な繋げ方だというのは、それでも一つの考え方として尊重されるもんですから、このまま行きます。
そして、ここからが真の本題というか、僕が語りたかったことです。

個々人の思いや考え、あるいは偏見、それらをまとめて観念とする。それが集まったものが概念とか常識とか言われるものです。
前述のとおり、「ちゃんと」のイメージはおおよそ共有されていて、既成概念として我々の中にインプットされています。
ただ、常識を疑えと言われて、疑いの眼を向けてみると、えげつねぇ歪な形をしているように見えます。
幸せの形は人それぞれであり、世代間でその共通認識も大きく変わり、難易度も変わり、入り乱れ、ぐちゃぐちゃになっています。

それなのに、同一の「ちゃんと」を信じる。気持ち悪ぃな。
あまりにも神格化されてはいないか。
信仰の対象にするには不適切ではないか。

これの何が良くないって、「ちゃんと」しないのが幸せな人間を苦しめるんですよ。
みんながそれを、正体も分かっていないのに、曖昧なまま良いものだとするから、漠然とそれを目指さなきゃいけないような気がしてくる。
プロパガンダってやつです。
以前ツイートしたのはため息についてですが、これと同じようなことが起こっている気がします。

「ちゃんと」しないのが幸せなのに、周りがあまりにもそれを美化するから、そこから外れた自分がダメな人間に思える。
例えば、社会不適合者って言葉があります。社会生活をするのが苦手な人、くらいのイメージで使いますけれども、こういう人たちは社会に出て集団の中で生きるよりももっと幸せで生きやすい道があるはずです。
そこに辿り着いて、そこでニコニコ暮らして、プロパガンダに屈しない。それができたら最高です。
なのに、社会に出たら生きづらさを感じ、社会から外れたら自分がダメな人間なような気がする。これではどこに行っても辛いばかりです。
長所も短所もなくすべては特徴に過ぎず、それが良い方向に働く場面か悪い方向に働く場面かの違いしかない論者の僕からすると、適材適所、社会不適合者にも生きやすい道があるはずで、それをこんな妙な共通認識に潰されるのは気持ち悪ぃなと思うのです。

ただ、これは僕がある程度「ちゃんと」できているから言えることなのかもしれません。
「ちゃんと」学校に通って、「ちゃんと」友達と遊んで、「ちゃんと」恋愛をして、「ちゃんと」ルールを守って、「ちゃんと」働いて、「ちゃんと」敬語が使えて、「ちゃんと」親孝行をして、共通認識らしいこういうのが正しいんでしょ? をたくさんやってきた気がします。
僕にとってはこれが普通だった。当たり前だった。
でも、当たり前を当たり前のように当たり前にこなすのは案外難しくて、世間の思う「普通」のハードルは想定外に高くて、どこかで躓いて、劣等感に苛まれて、一番にはなれなくて、60点で妥協して。
そんな人間からしたら、「ちゃんと」するってのは喉から手が出るほど欲しいものなんでしょうね。
アイドルになりたいとかスターになりたいとかプロ野球選手になりたいとか大金持ちになりたいとか、そんな大それた夢の話をしているわけではないのに、ただ普通に、当たり前に、「ちゃんと」して幸せになりたいだけなのに、できない。正しいと信じる道を歩けない。周りを見れば「ちゃんと」できている人がいるというのに、自分には届かない。
そりゃ、欲しいですよね。憧れますよね。妬ましいとまで思いますよね。
僕みたいなやつが簡単に、「ちゃんと」しなくても良いじゃんとは言えません。
いや、言うのは簡単です。もっと言えば、そんなのに囚われてバカみたいとまで言えますよ、僕には。
でも、これは確実に誰かを傷つける。
だから迂闊には言えない。
タチが悪ぃな、「ちゃんと」ってやつは。
俺にはお前が悪人に見えてしょうがないよ。

先日、親くらい歳の離れた人に「ちゃんと」してねと言われました。まぁ、実の親からも言われるんですけど、そのときに、僕は「ちゃんと」することができるタイプの人間なので、別に問題なく、滞りなくできるなと思っただけでした。
でも、ふと思い返して、じゃあ「ちゃんと」出来なかったらどうなるんだろうかと考えていました。ガッカリされるのでしょうか、あるいは罵られるのでしょうか、それとも、やっぱりと思われるでしょうか。
いずれにしても、僕を見ないで「ちゃんと」を頼りに期待して、それを基準に一喜一憂されるのはたまったもんじゃねぇなと思いました。
親子だろうとなんだろうと、独立した個人を縛ることは許されません。それが人権ってやつです。それが全てではないですが、言うことを聞かせたいなら立場によって聞かせるのではなく、納得できる説明か、この人の言うことなら聞いてやろうと思わせるだけの人徳が必要なんです。
これは理想論で現実はもっと厳しいものですがね。
ただ、理想論を信じるなら、人の言う「ちゃんと」しろなんて言葉は聞かなくて良いんです。
だって、それは個人を見ているわけではなく、既成概念という幻を見て言っているようなものなのですから。
思想の押し付けでしかないのですから。

はい、言いたいことはザバッと言えたので、そろそろ締めましょうか。
「ちゃんと」するの正体は、その先に幸福を見ること。
しかし、幸福の形は人それぞれであり、既成概念に左右されるものではない。
幸福は見出すもの、プロパガンダに屈せず、自分だけの幸せを見つけよう!
うん、ライトな感じにまとまりましたね(詐欺)。

これ、もう一つ付け加えると、不幸になることを望んでいる人もいるんですよ。息苦しく、日々悩み、苦しんで死んでいく。生きていくではなく、死んでいく。そういうものの見かたもあるって話です。
不幸なのに、望んでいるのだから実現したらそれは幸せか。
こういうのをパラドックスって言うんでしたっけ。
マゾは嫌なのが好き、それは嫌ではないのでは……? みたいな。
こういうのも結局は一般的には不幸ってだけで、その人からしたら幸せなんでしょうね。少し僕には共感できない領域ですけれども。

というわけで、改めて幸せについて考えてみようの回でした。
この文量の思考を頭の中だけでやっていたものですげぇ気持ち悪くなってたんですけど、こうして文字に起こしてみると整理されて気分が晴れますねぇ。
いやぁ、これが幸せってやつなのかな、なんて。
やっすい幸せ、でも、こういうところに見出して楽しむのが僕の流儀です。
自己満足で結構、今後もこうして思考をバラ撒くのでまた読んでくれたら嬉しいな。承認欲求も満たせて一石二鳥~♪

ってなところで、今回はここまで。
また、いつになるか分からない次回で会いましょう。
それでは。

画像はリガトーニ・カルボナーラです。
僕の幸せを表す画像としてこいつはなかなか意味のあるものなんですよ。
ここで長々と話すわけにはいかないので詳細はまたの機会にってことで、行けたら行く的なことを言ってはぐらかしておきますが、作るときも、食べるときも、得も言われぬ幸福感に包まれていたのは確かです。
相変わらずお料理も「ちゃんと」してきてたいですね。なんて。

Next→次を書く自分。

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