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コケのお話

僕にとっていろんな意味で気になる植物、コケのお話をしてみよう。

コケとは。道ばたの石垣に控えめに付着している植物。森のなかで緑のマットを形成する植物。そして、北の国の広大な大地をおおう植物である。コケの生きざまに僕は、未来を憂う科学者としての関心を向けると同時に、きわめて個人的な愛着を感じている。


うす暗い地面から光を求めて伸びるコケ。進化の歴史のなかで最初に陸地に上がったのはコケのなかまであり、むかしも今も、緑のマットで地面にフタするのが彼らの生き方だ。写真のヒノキゴケは、特に大ぶりでうつくしいので僕のお気に入りだ。

ヒノキゴケ


ハーバードでの大学院時代、僕が研究の対象としていたのはカナダ北部の亜寒帯の森林だ。果てしない大地に針葉樹林(タイガ)が広がるエリア。そしてその大地は、一面のコケで覆われていた。

比較的乾いた場所では、イワダレゴケ(Hylocomium splendens)やタチハイゴケ(Pleurozium schreberi)。湿った場所ではミズゴケ(Sphagnum属)。コケの緑のマットにおおわれた世界は、特別な感覚を生じさせた。そこを歩くと、コケのクッションで足が沈みこんでゆく。コケは周囲の音を吸収し、僕をひとりぼっちにする。

平坦で、あまり見通しのきかない針葉樹林。どっちを向いてもクロトウヒ(Picea mariana)の木とコケばかり。すぐに方向感覚が失われてしまう。命綱のGPSをにぎりしめながら、おそるおそる歩く毎日だった。


なぜこんな場所にいたのかって? 
僕がこの場所で研究していたのは、地球温暖化について。北の生態系は、現在のところ大量の炭素を蓄積している。しかし、それは今後どうなるか分からない。

生態系の炭素が増えたり減ったりすることは、大気中の二酸化炭素の増減に直結している。生態系が炭素をたくさん貯めこめば、大気中の二酸化炭素は減って温暖化はおだやかになるし、逆に生態系から放出されると、温暖化ははげしくなる。


特に着目していたのは、ミズゴケの生えている湿地状の森だ。
ミズゴケは、コケのくせにわりと大型で、分厚いマットを形成している。そこにスコップを刺してみると、マットの断面があらわれる。日光の当たる表面の数センチが、ミズゴケが光合成などの生命活動を活発に行っている部分。その下では葉緑素が失われ、生命活動をやめてぬけがらとなったミズゴケの体だけが、深さ数十センチにもわたって存在している。

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そしてミズゴケの体は、スポンジ状の組織でできているため保水力がきわめて高く、周囲の地面を湿地と化してしまうパワーを持っている。なんせ、ミズゴケは天然の保水スポンジとして園芸用に売られているくらいなのだ。ミズゴケのマットは、保水力だけでなく、断熱効果も高い。亜寒帯の夏はけっこう暑く、晴れた日中は気温が30℃に達することもめずらしくないのだが、コケのマットの下はいつでも、凍るように冷たい(文字通り永久凍土が存在する場所だってある)。さらに、ミズゴケの体には、微生物による分解を遅らせる物質がふくまれている。


ミズゴケ。コケのなかでも特に湿った環境を好む。基本いつでも水びたしで、手で軽く押してみると、じわりと水がにじむ。地球の北の大地は、広い範囲でこいつにおおわれている。


保水力、断熱効果、そして分解の遅さ。この3つの特性が生む相乗効果を、読者のみなさんはお分かりになるだろうか。その答えは、異常なほどの炭素蓄積能力なのだ。

ふつう、死んだ植物はすみやかに土壌の微生物によって分解され、そこにふくまれていた炭素は、二酸化炭素として大気に還っていく。ところが、温度が低く、水浸しのため酸素が得にくい場所では、微生物の活性はとても低い。そのうえミズゴケの体は分解されにくいのだから、炭素は長く長くとどまり、大地に蓄積されていくのである。


京都市左京区、哲学の道にほど近い安楽寺門前のウマスギゴケ。庭にコケを積極的に生やすことを考えた人、そして石とのコントラストを考えた人は天才だと思う。コケ眼になって見つめると、ハイゴケなど別の種類のコケも見えてくる。そしてカエデの芽生えや松の落ち葉など、この場所の小さな、生態系の循環を感じる。


そして、長い時間をかけてミズゴケの繊維は徐々に変質していき、やがてペースト状の泥炭になっていく。泥炭の寿命はきわめて長く、何千年分もの炭素を蓄積する役目を果たしている。ちなみにカナダのこの調査地は、氷河期の時代から8000年前くらいまで、氷河でおおわれていた。地球が暖かくなってきて氷河が後退していくと、そこは湿地となり、ミズゴケが生えはじめた。その当時の炭素が今も蓄積されていたりするのである。


温暖化によって環境が変わっても、これからもミズゴケから生まれた泥炭は炭素を蓄積し続けるだろうか。この問いに答えるため僕は、これからの泥炭の運命を、コンピューターでシミュレーションしはじめた。温暖化をきっかけとし、生態系が変化すること。そしてその変化が、ひるがえってさらに温暖化を加速させる可能性。これがフィードバックとよばれる現象で、それを研究する使命感が、いまも僕をつき動かしている。


僕の研究と縁の深いコケだけど、僕は個人的に純粋に、コケが好きだ。コケは、長い長い進化の歴史のなかで、最初に陸に上がった植物。彼らは根っこを持たないため、地中から水を吸うことができない。だから、適度に湿り気がある場所じゃないと生きていけない。彼らの成長のスピードはおそい。体内で水を運ぶ仕組みをもたないから、背も高くなれない。こんなわけで、現代の森では、コケは決してメジャーな植物にはなれないのだ。乾燥に強く、深く広く根を張り、太く長く頑丈な幹を持つ種子植物が森の王者だ。コケは王者の足もとで、こっそりと地面を覆うだけの存在。しかしなぜかやつらは、僕のこころをつかんではなさない。


コケは、日光が強く当たりすぎると、乾燥して死んでしまう。かといって、日光がまったく当たらないと、光合成できなくて死んでしまう。なんとなく、「孤独を愛するけどさびしがり屋」、みたいなアンビバレント(愛と憎しみなどのように相反する感情を同時に抱いているようす)な感覚をいとおしく思うのは僕だけだろうか。


コケがつくりだす空気感は独特だ。お寺の苔庭。たとえば京都嵯峨野の祇王寺は、平安時代末期、平清盛に飽きられた遊女たちが尼僧となり、人生の栄枯盛衰を感じながら念仏を唱え、ひっそりと暮らした場所である。

さして広くない境内にはコケが一面に生い茂り、独特の世界を構成している。そこでは、時間の流れも空気の流れも止まっているかのようだ。ここで暮らしたら、どんな気持ちになるだろう。コケがいてくれることによって、わびしくさびしい暮らしでも、なぜか絶望しないですむこと。こころに小さな明かりを灯してくれること。むかしの人にとって、そして僕にとって、コケとはそんな存在なんじゃないかと思ってしまう。


コケはきれいだ。コケに恋すると、何気ない路地裏を散歩していても、いろんなコケを見つけてしまう。僕はこれを「コケ眼(め)」と呼んでいる。コケ眼になると、石垣の横を通りかかるときなど、自然と歩くスピードが落ちていく。誰も振り返らない地味なコケだけど、しっかり生きている。じっくり見ると、なかなかきれいで、かわいいやつだ。僕はコケみたいな存在になりたいと、漠然と思う。


僕のはたらく京都大学芦生研究林でも、コケはたくさん生きている。特に、広大な天然林エリアでは、地面に横たわる大木に付着するコケが多く見られる。コケたちはそれぞれ、自分にとって居心地のよい場所に定着し、光合成し、成長する。その結果、コケの保水力は木の幹を湿らせて、微生物による分解を早めていく。

コケのマットは、樹木の幼い芽生えをはぐくむ場所でもある。こうして時間が経っていくと、死んだ巨木は朽ち果て、やがて次の世代の樹木が生い茂るようになるだろう。コケは、このように流転する森林の循環の、ささやかな一部分として組み込まれているんだと感じる。


芦生研究林の原生林エリアで見かけた。巨大な倒木を覆いつくそうとするコケ。巨木も、それにからみついていたツル植物も、いまは一緒に眠り、コケをまとっていく。

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森林生態系を構成する生物たちは、「高尚な目的」とか「仲間たちのため」なんてことはいっさい気にせずに、自分のためにプラスになることを、精一杯やって生きている。それでもそこにバランスが生まれる。コケもその一員だ。自分に適した場所を見つけ、ささやかに、したたかに生きること。僕はコケから多くを学ぶ。コケとしては、「この不思議なオトコを教育してやろう」なんてまったく考えていないんだけど、僕は勝手に学ぶ。


コケから考える自然のこと、人間のこと。ささやかなきっかけは、僕らをときに科学者に、ときに哲学者にするんじゃないだろうか。

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