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ずるい戦略

生物の生きざまには、いろんな戦略がある。生きものたちはみな与えられた環境でベストを尽くし、生存と繁殖のために必死で生きている。だからその戦略に貴賎はないはずで、研究者にとってはすべて興味深い研究対象ではあるのだが、個人的な感情論を言わせてもらうと、「うまくやってるな、ずるいな」と感じてしまう生物の行動も多い。

たとえばカッコウ。自分の卵をほかの種の鳥の巣に産み落とし、その鳥に育てさせるという戦略だ。いわゆる托卵というやつ。カッコウは知能犯であり、相手をだますことで自分が得をしようとする。まるでオレオレ詐欺みたいなものだ。ほかの種の鳥の巣に卵を産んでおけば代わりに育児をしてもらえるので、これはカッコウにとってはまことにけっこうなことだ。だからこの戦略の成功確率が高くなるよう、カッコウは別種の鳥の卵に似た卵を産むように進化してきた。

しかしこれは、相手の鳥にとってはたまったもんではない。怪しいところのある卵を排除するなど、相手も自衛策を講じるようになる。するとカッコウは、さらに相手の種の卵に似た卵を産むように進化していく。攻撃と防御の軍拡競争だ。オレオレ詐欺でもあの手この手で戦略が緻密になっていくような現象と似ているかもしれない。ただ電話口で「オレオレ」と連呼するだけの初期型の詐欺には誰もだまされなくなってきたので、詐欺師側は事前にターゲットの家族構成を調べるなど用意周到になってきているらしい。これも、攻撃側と防御側の軍拡競争といってよいだろう。

もちろん軍拡競争は、托卵のような「知能犯」だけじゃなく、暴力的な関係でも生じている。カメやアルマジロが分厚い装甲を背負っているのも、軍拡競争の結果なのである。肉食動物のキバが通らないほどの甲羅を持つことで防御性能を高めている。人間社会では、空き巣に入られないようカギの性能を高めるなどの対策がこれに相当することだろう。

植物にもずるい戦略というのは存在していて、カッコウのような「ちゃっかり者」がいたりするのだ。その一例としてツル植物が挙げられよう。しかしまず、ツル植物について考える前に、樹木という生きざまを理解しておこう。

そもそもなぜ、樹木は太く長い幹を持ち、上へ上へと伸びようとするのだろうか。それは、光が欲しいからだ。となりの木よりも背が高くなれば、たくさん日光を浴びてたくさん光合成できる。すると、さらに大きくなったり、たくさん種をつくることが可能になる。だから、上へ上へと伸びるのは、植物に普遍的に共通する大事な戦略なのである(※ ごくまれに、光合成することをやめてしまった植物も存在するが、その話はまたなにかの機会に。)。

森の樹木たちは、それぞれ精いっぱいたたかっている。樹木の体重測定をすると、地上部分の優に9割以上は幹が占めている。もしも競争相手のいない世界ならば、こんなに巨大な幹をつくるのをやめて、そのエネルギーを葉っぱや花、種に使ったほうがどんなに効率的か。しかし現実はそんなに甘くない。限りある資源である日光をめぐる競争は、まさに死活問題だ。だから樹木はその巨体を、まわりの樹木との競争のために保持しているのである。樹木とは、まさに戦闘機械のようなものだ。森を散歩するのは人間にとっては気持ちのいい経験かもしれないけど、実はそこの樹木たちは、命をかけてたたかっている。「森でいやされるね」なんて感想を人間がもらすのは競争の当事者じゃないからで、樹木たちはとにかく必死で、気を抜くことなんてできないだろう。

日光をめぐる樹木のあらそい--これは人間である僕の目から見たところ、フェアな競争のように思える。どの樹木たちも、自前の根っこで地面に立ち、自前の幹を持ち、自前の葉っぱを伸ばしているわけだから。しかしそこに、人間から見たら「ルール違反」と言いたくなるような植物も存在している。それがツル植物だ。自立することを放棄して、ほかの樹木の幹にすがりつくことで、効率よく上に伸びていくことが可能になる。これは寄生の一種だけど、大半のツル植物は、相手から水や養分を吸い取ることまではしない。純粋に、幹という構造に寄生しているのだ。だからツル植物は、相手が樹木だろうが岩だろうが鉄塔だろうが、なんでも上に伸びるものに寄生していく。

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[写真] ツル植物は、からみつく相手が樹木であれ建物であれ、とにかく「高さをかせぐ」ために必死である。

では、寄生先の樹木が枯れて倒れてしまったら、ツル植物も一緒に死んでしまうのだろうか。実はそうともかぎらない。ツル植物は、樹木の上のほうでもさかんにツルを伸ばし、常に成長する機会をうかがっている。樹木が密集して生えてる森林では、枝が隣接した樹木にもツルを伸ばしたりする。これは保険としても機能するのだ。もし、もともと寄生していた樹木が倒れてしまっても、ツル植物のツルはとなりの木に引っかかっているので、地面まで引きずり倒されないで済む。こうして、もとの木が死んでしまっても生き延びることが可能になる。

生物の生きざまを過度に擬人化することはよくないこととは知りつつも、個人的には、「誰かから利益を吸い取り続け、相手が倒れると次の寄生先に移る人」みたいなヤバさを感じてしまう。しかしこれがルール無用の生物の世界であり、僕ら人間が勝手に思い描く、絵本に出てくる生物の楽園みたいなイメージのほうが間違っているのかもしれぬ。おだやかに見える森林でも、生きものたちは虎視眈々と、あの手この手で他人を出し抜き利用してやろうとチャンスをうかがっているのだ。

原生林を歩いていると、とてつもなく太いツル植物に出くわすことがある。もしかしたらソイツは、いまとりついてる樹木よりも年上なのかもしれない。ツル植物の根元と、寄生先の樹木が10メートル以上離れていることもあったりする。それは過去に、もともとの寄生先の樹木が倒れて朽ち果て跡形もなくなったが、ツル植物はとなりの樹木に乗り換えてピンピンしてる、という現象の痕跡なのかもしれない。

こんなかんじで、人間の視点からはずるいと感じられてしまう生きざまを持つ生物について考えてみたけれど、なんらかの方法で寄生する生物は、特別な極悪人というわけではないと思う。肉食動物のように、きっぱりと相手の命を奪ってしまう生物も多々あるからだ。相手を直接は殺さないという意味では、カッコウやツル植物はソフトな戦略であるともいえる。しかし、このような寄生の影響は徐々に相手をむしばんでいき、適応度を低下させてゆく。生命ってこういうものなんだけど、こころもちょっと痛んだりするのである。

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