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生態学者も植物を枯らす。

生きもののことが気になりすぎて生態学者になった僕だけど、実をいうとそれほど生物に詳しいわけじゃない。

生物学者というと動物園の飼育員さんのように生きものを育てるのが得意というイメージがあるかもしれないけど、僕はぜんぜんそういうタイプじゃないのである。「目の前の一匹の動物を幸せにできないくせに世界の自然を救うことなんてできるのか!」なんてお叱りを受けてしまうかもしれない。
それは僕の至らぬところであり反省しきりなのであるが、だからといってこんな生態学者の存在価値はゼロかというとそうでもない。そうであってほしい。

そんな僕のお仕事は、特定の生きものではなく、多くの生きものにとって普遍性な法則を探すこと、生きものの「機能」に着目し、多くの機能が絡み合って動いている自然界の成り立ちを考えることである。こういうのも生態学者の大事な役割であり、本稿では折に触れて述べていきたいと思うのである。

さて、生きものを育てるという点では素人同然の僕であるが、生きものに対する興味は人一倍強い。幼少期は身の回りのありとあらゆる生物を観察していた記憶がある。

生まれ育ったのが徳島県のど田舎のコメ農家。身の回りにはノライヌ・ノラネコをはじめ、各種のカメ・フナやメダカやアメリカザリガニ、オニヤンマやギンヤンマやシオカラトンボ、そして春のあぜ道に生息するオオイヌノフグリやホトケノザなど多くの生きものを眺め観察し、あわよくば自分の手元で育ててやろうと息巻いていたのである。

しかしその試みの多くは失敗に終わってきた。

がんばって世話をすればするほど、野生の生きものたちは居心地がわるそうな顔をして、えさを食べなくなって、やがて弱っていく。その一方で、早春にシーチキンの空き缶に植えたことを忘れて庭の片隅に放置していたオオイヌノフグリが元気いっぱいに成長しているのを見たりする。

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こうして僕は、自分が生きものの飼育にあまり向いてないという苦手意識と、生きものは野生で暮らし、人間とかかわりすぎないほうが幸せなんじゃないかという気持ちを持つにいたったのである。


こうして僕は積極的に生きものを育てることはあまりなくなった。生きものが僕から受けるお世話を喜びつつ幸せに共存して生きていけるなら育てるのもやぶさかでないのだが、どうにも自信が持てないのだ。そのかわり、ちょっと離れたところから、彼らがどうやって暮らしているのか観察することにした。

すると、自然は僕にいろんなことを教えてくれるようになった。生態学や進化生物学の専門的な知識を身に着けていくと、見慣れたはずの動植物の振る舞いが深い意味を持つことも理解できるようになってきた。

本稿は、そんな僕の「目のツケドコロ」をいろいろ語っていきたいと思う。しばしお付き合いいただけると光栄である。

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