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なぜ高子を「たかいこ」と読むのか

 平安時代に、宮中に出仕した女性の呼称は、例えば中宮定子を「ちゅうぐうていし」とか、彰子を「しょうし」とか読むように、音読みにすることが多い。

 昔、誰に習ったのか忘れたが、これは宮中では基本的に中国風で音読みだったから、本名とは別で、宮中での読み方として音読みにしているのだ、と聞いた。

 清少納言みたいに、「せい・しょうなごん」。それなら紫式部は、藤式部で「とう・しきぶ」。
 男性でも、菅三品「かん・さんぼん」=菅原文時の通称。これはまあ和漢朗詠集だから?

 藤原定家も、関西の研究者は「さだいえ」じゃなくて「ていか」と呼ぶ。俊頼も「としより」じゃなくて「しゅんらい」。俊成も「としなり」ではなくて「しゅんぜい」。
(関東の先生はどうか知らない。しかし、墨ケチ歌(墨滅歌・すみけちうた)を「ぼくめつか」と呼ぶのはやめてほしい。伝本の書き入れには「墨ケチ」と書いてあるから。)

 では、なぜ、二条の后・藤原高子は「こうし」でなく「たかいこ」なのか? 

 これは、平安初期の歴史書と『伊勢物語』『古今集』などに拠る。

 実は、このころ、高子さんが何人もいた。
『日本三代実録』(元慶元年閏二月七日)に二条后の名前に憚って、改名した女性たちの記録がある。

 たとえば、春澄洽子。古今集を知っていれば「洽子」を「あまねいこ」と読めるだろう。仮名書きになっている伝本もある。この人も、改名した一人で、元は春澄高子だった(元慶元年二月二十二日)。

 また、『伊勢物語』第三十九段で「西院のみかどと申すみかどおはしましけり。そのみかどのみこ、たかいこと申すみまそかりけり」
とある。歴史書に当たってこの「たかいこ」という皇女は崇子内親王だと判明している。「崇子」を「たかいこ」と読むのは訓読みだ。

 したがって、この当時は女子の名前が漢字の訓で読まれていたことが、『伊勢物語』や『古今集』から分かる。

 でもやはり、音読みされることもあったのだろう。それを避けるためか、一字一音の漢字を当てた名前がある。

 藤原多賀幾子。藤原良相の娘で、文徳天皇女御だった。『伊勢物語』第七十七・七十八段に出てくる。歴史書にも同じ表記だ。
 また、良相の末娘の多美子(清和天皇女御)も、多賀幾子と同様に一字一音の名前で、まるで万葉仮名のような表記で読み方がハッキリしている。
 良相は漢学に造詣が深かったというが、逆に和読みの訓を一字一音で娘の名前に付けたことになる。

 因みに、良相の屋敷が発掘された時、かわらけに平仮名が書きちらされていたので、大発見と騒がれた。平仮名はもちろん漢字の崩し字が元だが、漢字ばかりで書かれていた上代から、平安初期の平仮名へどのように移り変わっていったのか、よく分かっていなかったからだ。

 もちろん、名前の読み方も年代によって異なるのだが、この西暦800年前後では訓読みが優勢だったようだ。
 まあ、現代のキラキラネームも、時代が経てばきっと後世の人々に不思議がられるだろう。



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