【勅使河原先生の縄文検定】 第8問


『縄文時代を知るための110問題』の刊行記念。
著者勅使河原彰さんが本書から厳選した10の「問題」。
https://www.shinsensha.com/books/4447/


第8問 縄文時代に身分階層はあったか

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答え
複雑で高度に組織化された社会であることから、首長や貴族などの身分階層があったとの主張もあるが、特定の身分や階層の制度はなかったと考えられる。


 縄文時代が複雑で高度に組織化された社会であることから、その社会を指揮する首長層ないし貴族層などの身分階層が、縄文時代にもあったとの主張がある。たとえば小林達雄は、漁労を主たる生業としたアメリカ北西海岸の先住民の社会に奴隷がいたことを参考にして、福岡県遠賀郡芦屋町の山鹿貝塚で二〇枚を超える貝輪をはめた女性をはじめとして、文様を彫刻した鹿角製の腰飾りをつけた男性など、副葬品をともなう埋葬例がみられることから、縄文社会にも身分階層があって、奴隷層までいた可能性さえあると述べている(『縄文人の世界』朝日新聞社、一九九六年)。また、新進化主義学説をリードしたサーヴィス(Elman Rogers Service)が社会進化の諸段階として、バンド社会、部族社会、首長制社会、国家社会、産業社会という五段階説を唱えたが(松園万亀雄訳『未開の社会組織―進化論的考察―』弘文堂、一九七九年)、そのうちの首長制社会の存在を縄文時代に想定する研究者が増えてきている。

 サーヴィスの首長制社会とは、バンド社会と部族社会という性や年齢にもとづくもののほかは経済的な分化などがみられない平等主義的な氏族制社会から、いきなり階級的な政治社会である国家が成立するのではなく、氏族制社会と国家社会の間に、それらとは質的に異なる社会進化の段階として、世界の民族誌の実例をもとに設定されたものである。その特徴は、一般成員と区別される首長ないし貴族層が、社会内の経済、政治、宗教活動などを統括する機能をはたしており、そうした首長や貴族層は、特定の出自集団が世襲しているというものである。社会の経済基盤として、部族社会よりも高い生産力と、それにともなう余剰が存在するということと、そうした余剰が首長のもとにいったん貢納された後に、公共事業や祭祀への参加、首長たちへの奉仕の見返りなどという形で、一般成員に再分配される。この再分配の行為によって、首長たちの威信と一般成員からの支持が期待でき、それにより部族社会よりも高次の社会統合と組織化が可能となるが、国家のような政治機関はもたない社会と説明している。

 こうした首長制社会などの身分階層が縄文時代にあったかどうかを考察する前に、その前提となる平等と不平等について、まず考えてみたい。不平等には、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)が的確に指摘しているように、自然的または身体的不平等(以下、自然的不平等とする)と社会的あるいは政治的不平等(以下、社会的不平等とする)の二つがある(本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起源論』岩波書店、一九七二年)。自然的不平等は、年齢、健康、体力、精神の差で、これは身体に規定される個人的な資質の差であって、決して無くすことはできないので、ルソーは、人類の不平等を論ずるにあたって、社会的不平等のことを問題としたのである。だからこそ、ルソーは、人類とは「本来相互に平等」であって、「自然が人々との間に設けた平等と人々が打ち立てた不平等」とを『人間不平等起源論』で考察したのである。

 ところで、自然的不平等とは、人類だけでなく、植物であれ、動物であれ、生き物の世界では多寡は別とすれば、共通に存在するものである。しかし、生物の世界に自然的不平等があったとしても、人類を除く生物一般を不平等な社会だとはいわない。それは人類を除いては、社会的不平等というものが存在しないからである。では、人類だけに社会的不平等が、なぜ存在するかというと、実は人類だけが明確に血縁を識別することができ、特定の地位や財産などを世襲することができるようになるからであって、その意味で社会的不平等というのは、きわめて歴史的な所産だということである。

 ここでルソーの古典を引用して、自然的不平等と社会的不平等の違いを明確にしたかったのは、縄文時代に身分階層があったとか、縄文社会が階層化社会であったと主張する論者の多くが、こうした自然的不平等と社会的不平等の違いを認識せずに、あたかも不平等の存在は、人類社会に普遍的にみられる現象と考えてしまい、結果として、平等と不平等の本質を見誤ってしまっているからである。

 では、縄文時代に身分階層があったかといえば、「なかった」というのが私の答えである。

 縄文時代に身分階層があったとする主な論拠は、墓から出土する装身具や副葬品に格差があるということである。たしかに設問94で解説しているように、すでに早期から装身具や副葬品をまったくもたない多数の墓のなかにあって、特定の墓だけに装身具や副葬品をともなう風習はあったし、縄文時代を代表する装身具である耳飾りですら、一つの墓地で一〇パーセント以下の遺体にしかともなっていない。

 このように、墓から出土する装身具や副葬品を量的にみると、縄文時代にも身分階層があったと想像したくなる。しかし、肝心なことは、これら装身具や副葬品をもった墓といえども、共同墓地の一画を占めているだけで、ほかと区別されるような特別な墓を築いてはいないことである。たとえば北海道の周堤墓をみてみよう。周堤墓とは、縄文後期後半の道央から道東にかけてつくられた墓地で、円形に竪穴を掘り、その廃土を周囲に土堤状に積み上げて墓域としたものである。恵庭市の柏木B遺跡第1号周堤墓は、竪穴のなかに二一、土堤の上に一八、土堤の裾に五、計四四基の土坑墓が発掘されている。それらの墓は、土坑の大きさは大人と子どもの違い以外はなく、装身具や副葬品の種類や数もバラバラである。しかも、墓の位置も、竪穴の中央の一一〇五号土坑墓で石鏃一つなのに、土堤上の一〇〇八号土坑墓では石棒二、尖頭器三、石斧一、半月形ナイフ一、大型剝片一というように、装身具や副葬品をともなうからといって特定の場所を占めることはない(木村英明編著『北海道恵庭市柏木B遺跡発掘調査報告書』柏木B遺跡発掘調査会、一九八一年)。このように、縄文社会でもっとも厚葬の習俗をもつといわれる北海道の周堤墓ですら、装身具や副葬品の量的な違い以外には、何らの規格性や統一性をもっていないということは、特定の身分や階層が制度として存在していなかったことを意味している。

 では、縄文時代の共同墓地のなかに、なぜ特別に装身具や副葬品をともなう墓があるのか。それは縄文社会といえども、安定した生活を営むためには、豊かな経験と知識をもったリーダーが必要で、厳しい自然環境に立ち向かうためには、原始的なアニミズムがあったことは間違いない。しかし、誰でもが、リーダーや霊能などの資質をもっているわけではない。当然、個人的な資質の差、つまり自然的不平等はあるわけで、リーダーとしての素質があったり、霊能にたけていたり、あるいは狩猟や漁労などの技能に優れているなど、それぞれの能力に応じた役割をはたしていた。そうしたなかに、生前に集団の維持・発展に貢献した人物がいれば、それを敬う意味で、その貢献度にみあう装身具や副葬品を墓に納めたということである。つまり個人に対する「栄誉」以外のなにものでもなく、まして、首長や貴族層が世襲化するといった社会的不平等は、墓はもとより、ほかの考古資料からもみいだすことはできない。

 そして、興味深いことに、縄文時代でも、時期をおって厚葬の例は増えてくるし、北海道や東北地方など冬の寒さが厳しい地方ほど厚葬の例は多くなる。それは縄文時代といえども、時期を追うごとに社会は複雑化してくるので、それだけリーダーがはたす役割は大きくなる。また、冬の寒さが厳しい北日本ほど、秋までに冬の食料を大量に備蓄する必要があるだけでなく、とくに重要な保存食料となったサケなどは漁期が限られ、しかも、短期間に保存処理をしなければならないこともあって、リーダーには、それだけ高い能力や強い統率力が求められることになり、必然的に厚葬の事例は多くなるということである。ただし、こうした人物も共同墓地の一角に葬られただけで、約九〇〇〇年もつづいた縄文時代にあって、決して傑出した墓を築くようなことはなかったということからも、これらの人物が身分階層として固定した階層から生まれたものでないことは明らかである。

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