【勅使河原先生の縄文検定】 第1問

近刊『縄文時代を知るための110問題』(11月8日出荷開始)の刊行を記念して、著者の勅使河原彰さんが本書から厳選した10の「問題」を、出題します。

11月8日~不定期開催。#新泉社  #縄文時代
https://www.shinsensha.com/books/4447/

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【第1問】縄文時代はいつから始まるか?

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【答え】いろいろな考え方があるが、いまから約一万一五〇〇年前、完新世初頭。早期初頭、関東地方の土器編年で撚糸系土器の時期がふさわしい。

【解説】縄文時代はいつから始まるか? これが実は悩ましい問題であって、旧石器時代と縄文時代の画期を何に求めるかによって、その始まりは違ってくるからである。
 もっとも一般的な説は、日本列島における「土器」の出現をもって、縄文時代とするものである。これは土器が縄文時代において独自の発達をとげただけでなく、旧石器時代にはない煮炊き用の道具を列島の石器時代人が手に入れることによって、生活の仕方を根本から変えるような変革をもたらしたとの評価からである(近藤義郎「時代区分の諸問題」『考古学研究』三二巻二号、一九八五年。小林達雄『縄文の思考』筑摩書房、二〇〇八年)。その始まりは現在のところ青森県東津軽郡外ヶ浜町の大平山元Ⅰ遺跡の土器が最古なので、約一万六〇〇〇年前ということになる。
 二つ目は、土器が列島に普及した時期をもって縄文時代とするものである。これは出現期の土器は、出土する遺跡が限られているだけでなく、その数量もきわめて少ないことから、土器が本格的に普及する隆起線文系土器の時期を縄文時代の始まりとするもので、約一万四五〇〇年前ということになる(小林謙一・国立歴史民俗博物館編『縄文時代のはじまり―愛媛県上黒岩遺跡の研究成果―』六一書房、二〇〇八年)。
 三つ目は、植物質食料の加工技術や貝塚の出現などに象徴されるように、植物採集・狩猟・漁労活動における縄文的な利用の手段と技術が確立し、定住生活が本格化する早期初頭、関東地方の土器編年で撚糸文系土器の時期を縄文時代の始まりとするもので、約一万一五〇〇年前ということになる(西田正規『定住革命―遊動と定住の人類史―』新曜社、一九八六年。谷口康浩『縄文文化起源論の再構築』同成社、二〇一一年)。
 これらの説のいずれが正しいのかと問われれば、すべてが正解と答えざるをえない。それは個々の研究者が縄文時代の歴史をどうみるか、つまり歴史観によって正解が決まってくるからである。では、私はといえば、三つ目の早期初頭の撚糸文系土器の時期から縄文時代の始まりとする立場をとっているが(『縄文時代史』新泉社、二〇一六年)、その理由は主に三つある。
 一つは、生産力の発展段階である経済構造の画期という問題である。日本考古学の時代区分は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の四期区分がおこなわれている。旧石器時代は、世界史の時代区分で、人類による石器の使用が始まった時代。縄文時代は、列島で縄目の文様という特徴ある土器を使った時代。弥生時代は、縄文土器と区別される一個の壺が発見された当時の東京府向ヶ丘弥生町の地名からつけられた時代。古墳時代は、列島で高塚古墳という特徴的な墳墓が築かれた時代ということである。その後の研究の進展によって、旧石器時代は、狩猟を主な生業とする時代。縄文時代は、植物採集・狩猟・漁労を主な生業とする時代。弥生時代は、水稲農耕と金属器の使用が開始された時代。古墳時代は、列島各地の首長間に墳墓の形と規模にもとづく身分秩序が生まれ、広範な政治体制が成立した時代というように、本来の名称の意味合いとは別に、それぞれ実態が付与されてきている(表6)。このように名称が一見、不統一のようにみえるが、小野昭も指摘するように、時代区分の基礎に経済構造の画期という共通認識があるので、こうした名称を考古学における歴史叙述に使えているのである(『ビジュアル版 考古学ガイドブック』新泉社、二〇二〇年)。
 ところで、縄文時代の基本的な生産体系は、植物採集・狩猟・漁労の三つの生業活動の複合と、それに必要な生産用具の製作にある。とすれば、そうした基本的な生産体系である植物採集・狩猟・漁労という生業活動における獲得手段と技術とを確立させた時点こそ、経済構造の画期として、もっともふさわしいということになる。つまり生産用具の三つの変革が出そろい、さらに貝塚の形成が始まる早期初頭こそが、縄文時代の成立の画期としてふさわしいということである(勅使河原彰「考古資料による時代区分―その前提的作業―」『考古学研究』三三巻四号、一九八七年)。
 二つは、定住生活の問題である。狩猟を中心とした生業活動をおこなっていた日本列島の旧石器時代人は、移動生活を基本としていた。そうした移動民にとっては、もち運びできる最小限の道具類しかもたないことが合理的といえる。その最たるものが、礫(母岩という)一つをもっていれば、これから多様な種類の石器の素材となる石刃を量産できる、いわゆる石刃技法と呼ぶ石器製作技術である。一方で、定住生活を基本としていた縄文人は、土器をはじめとするさまざまな道具や生活用具を保有することになり、それは旧石器時代人のように身にもてるだけの限られたものだけではないということである。そして、定住生活で複数の石材を保有することもできるようになるので、縄文時代になると石刃技法が廃れてしまうことになる。また、移動民は、集団の構成員間で不和や争いなどが生じると、移動や分散で解消することができる。しかし、むやみに移動できない定住民は、社会の習慣や規制などを取り決めるなどして、構成員を一つの共同体という意識のもとに結びつける必要がある。そのために、縄文時代になると、旧石器時代にはない祭祀的な遺物や共同体の記念物ともいえる大規模な遺構が残されるのである。そうした定住生活が本格的に始められたのは、早期になってからだということは、衆目が認めていることである。
 三つは、環境史や世界史との関係である。約一万一五〇〇年前は、最後の氷期である更新世が終わり、今日の温暖な気候となる完新世の初頭にあたる。西アジアの肥沃な三日月地帯を含むレヴァント地域ではコムギやオオムギ、東アジアの長江中・下流域ではイネ、黄河中・下流域ではアワやキビなどの穀物が栽培化され、初期農耕が開始される(ピーター・ベルウッド〈長田俊樹・佐藤洋一郎監訳〉『農耕起源の人類史』京都大学学術出版会、二〇〇八年)。その一方で、森林資源や海洋資源が豊富な地域では、それぞれの地域の自然資源を有効に管理し、特色ある地域文化を発展させる。
 こうした完新世の気候の温暖化のもとで、新しく形成された環境に適応した人類が、高度に集約化した採集経済や農耕・牧畜による生産経済を開始することによって、各地で特色ある地域文化を発展させたのが新石器時代である。この新石器時代に日本列島で開花した地域文化こそが、縄文時代の文化であるとすれば、完新世初頭にあたる早期の撚糸文系土器の時期こそが、環境史や世界史との比較からみて、時代の画期としてはもっともふさわしいということになる。
 このように、縄文時代とは、約一万一五〇〇年前の完新世初頭に、植物採集・狩猟・漁労活動における利用の手段と技術とを確立させ、それら三つの生業部門を密接に組み合わせることによって、この列島の四季の変化に対応した食料獲得を容易にさせ、定住化をはかった、世界史の時代区分で新石器時代に相当する時代である。とすれば、縄文時代成立の画期は、早期初頭、関東地方の土器編年で撚糸系土器の時期こそふさわしいということになり、それ以前の「草創期」は、縄文時代の移行期として、時代区分上は旧石器時代に位置づけるべきだというのが、私の考えである。

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