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〈小説〉 ハロウィーン奇譚
1.
酔っ払いさえ姿を消す深夜の街。
図書館に向かって近づいていったのは、風船で作られた大きなジャックオランタンが、オイデオイデと呼んでいるように思えたからだ。
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秋の夜長、という。
ただでさえ長い夜に、入眠剤さえなんの効き目もない不眠症ときたら、それはつらい。
暑くなく寒くもない10月の夜。
眠れないのに無理に眠ろうとするのは逆効果だと、誰かが言っていたなと思い出した。
あまりにも眠れないので、どこへ行こうという当てもなく、ふらふらと家を出た。
しばらくは家の周囲をうろうろしてみたけれど、静かな住宅地なので何もない。
秋の虫さえ寝静まるのか、誰かの寝息のような小さな声がコロコロと草むらから聞こえてくるだけだ。
部屋へとって返して車のキーを持った。
いくら不眠症人間でもこんな時間に車を出したことはなかった。
町へ向かうときは少しドキドキした。
けれども、町へ出てみても田舎のことゆえ、同じことだった。
明け方まで営業している店もあるだろうけれど、繁華街というほど店が集中している場所もない。
駅へ続く大通りは、通り過ぎる車さえない。信号機も居眠りをしているように赤の点滅を繰り返している。詰所でこっくりこっくり舟を漕ぐ夜警の姿を思わせる。
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いつもなら、田舎とはいえそれなりの車が通るので路肩に車を停めるのもままならないが、今は止め放題だ。
咎める人もいない。
そんなことに「自由」を感じ、気をよくしてわたしは歩き出した。
車を置いて、誰もいない——シャッターが閉められ、街灯が空しく通りを照らしているだけの道を歩く。
深夜営業の店の灯りはところどころに見え、カラオケでも歌っているらしい音がかすかに聞こえてくるけれど、人の姿はない。
街を独り占めだ。
そんなふうに思って、一人歩きを楽しんでいた。
誰にも会わない街を歩くのは楽しい。
むしろ誰にも会いたくない。
夜は明けなくていい。
夜が明けなければ、眠れなくたって全然構わないのだ。
朝が来ると思うから、眠れずにいることが怖くなるのだから。
ずっと夜のままでいい。
そんなことを思いながら歩いていて、ジャック・オ・ランタンにおいでおいでと呼ばれたわけだった。
図書館ももちろん人影はない。
シャッターは降りてはいないが、自動ドアは強固に閉じられている。
閉館を示す看板も、二重の自動ドアの向こうで無愛想に立っているだけだ。
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——まあそうだよね。
そう思いながらドア越しに、入り口の飾りを眺めた。
昔はハロウィーンなんて言ってもほぼ誰も知らない、異国のお祭りにすぎなかったけど、いまや、夏が終わると日本中がハロウィーンに染められる。
ジャックオランタン、魔女、黒猫。
オレンジと黒と紫。
そんなものがお菓子のパッケージを占拠する。
図書館でも、子ども向けの読み聞かせイベントをやるらしく、よく見れば、入り口には長机の上にハロウィン仕様の飾りがあり、イベント告知の手書きのポスターも掲示されている。
ハロウィンといえばお化けにお菓子だ。
今やハロウィーンを題材にした絵本もたくさんある。
イベント告知のポスターにも何種類も絵本のタイトルが書かれている。
これでお菓子があれば完璧。
ハロウィーンの絵本の表紙を見ているだけで、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる気がする。
でも、今は誰もいない深夜。
眠れない人間が一人、無人の町をうろうろ歩いて、夜が明けなければ万事解決などと笑っているだけ。
開館時間になればドアが開けられ、あのポップや長机が通りに向かって置かれるのだろう。
このドアが開けば——
と、開かないはずの自動ドアに手をかけて驚いた。
動いた。
電源が通じていない自動ドアは重い。
重いけれど、冗談で指先をかけてみたら、動いた。
ほんの1センチほどだけど。
うそ——と思いながら念のため、空いた隙間に両手をかけて引いてみたら、なんと動いてしまった。
人が一人通れるくらいの絶妙な幅に、開いてしまった。
いいのかこれ——
呆然としばらくたたずんでいたが、なんだか、この世界には自分以外はもう誰もいない気分になって、楽しくなってきた。
警報器が鳴るわけでもない。
もしかしたら警備会社に通報がいっているかもしれないのに、そのときのわたしは何も考え付かなかった。
開かないはずのドアが開いた、ということが、単純に楽しかった。
大胆にも、開いた隙間からするりと中にはいる。
常夜灯と、非常口を示すライトが付いているだけで、あたりは真っ暗。当たり前だが。
そこに置かれた長机の上の絵本を一冊、手に取ってみた。
暗がりに慣れてきた目には、文字までは読めないけれど、絵はそれなりに見ることができた。
幼い子どもたちのための絵本なら、文字はほぼない。
絵で楽しませるものだから、暗がりに浮かび上がる可愛らしい絵だけでも十分だった。
その瞬間、白い光に包まれた。
天井灯がともされたのだとすぐわかったが、目を開けていられなかった。
しまった人がいたのか、と焦った。
わたしは立派な不法侵入者だ。ヤバイ、と思ったが目がくらんで動けなかった。
反射的に目を庇う。折り曲げた右腕で目を覆いながら顔を背けた。
「そんなところでご覧になっていないで、どうぞこちらへ」
どんな叱責を受けるかと内心飛び上がっていたところだったので、穏やかに落ち着いた声にそんなふうに言われて、かえってドキッとした。
「——大丈夫ですか」
落ち着いた声は少し心配そうな気配に変わった。
「すみません。暗いところで目が慣れていたので」
ドギマギしているせいで、そんなようなことを言葉につっかえながらなんとか言った。
ようやく目が明るさに慣れて、声の主を見ることができた。
日本人にはちょっと珍しい、きれいに整った顎髭が印象的な、70代ほどと思われる男性だった。
図書館のスタッフがユニホームがわりに着用している、紺色のシンプルなエプロンを身につけている。
「驚かせてしまいましたね」
目が合うと、目の奥にほんのり笑みを浮かべて、穏やかにそういった。
「いえ、こちらこそ、こんな時間に——というか勝手に……すみません」
しどろもどろになっていうと、いえいえ、と笑った。
「ドアをロックしなきゃいけないんですが、こんな時間だし、僕がいるからいいかと思ってそのままにしてたんです、こちらの手落ちですよ」
「——深夜のご担当もあるんですか」
あるいは泊まりか。
「そう。僕、ボランティアでやってます」
ロマンスグレイというのか、白髪、白髯の男性が自分のことを「僕」っていうの、なんとなくいいな、などとぼんやり思った。
「図書館へは何か? 本の返却ですか?」
時間外の本の返却には専用のポストがある。
返却だけなら時間外の図書館に押し入る必要はないわけで——しかも午前3時過ぎに——下手な嘘をついてもすぐバレるな、と思った。
「いえあの、図書館を目当てに来たんじゃなくて——あんまり眠れないので散歩で、フラフラ歩いていただけで、……で、それが目について」
それ? とわたしの視線を追って目をやり、風船のジャックオランタンに気がついて、男性は、ああと笑った。
「今月末まで子どもたちの読み聞かせに、ハロウィーンの絵本を集めたので。もちろん他の本もありますが」
男性は、スッと踵を返して奥へ進んでいく。
その姿は暗がりに溶け込んで見えたが、すぐにパッと明るくなった。
「よろしければどうぞ。気に入ったものがあれば貸し出しできますよ」
午前3時の図書館で本の貸し出し。
なんだかとても贅沢な——あるいは特別なことに思えた。
「よろしいんですか?」
と言いながら、明かりがついたフリーエリアに入っていく。
低いソファやベンチ、子ども用の柔らかい、大きなクッションが置かれているスペースで、ふだんは大勢の人で賑わう人気スペースだ。
開架から本を持ってきて読むことができる。
それが今は、誰もいない。
不謹慎だろうが、ワクワクしてきた。
「どうぞ。ご自由に」
男性はやはり穏やかに言った。
「僕はあちらで本の整理をしていますので、貸し出しでも、お帰りになるのでも、声をかけていただければ結構です」
「ありがとうございます」
不眠症の、とんでもない僥倖だった。
わたしはさっそく、ハロウィンをテーマに集められたイベントコーナーに進んで行った。
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2.
子どもの読み聞かせの主なテーマにハロウィーンが選ばれ、その絵本が集められていると思ったが、実際、書棚に寄ってみると、もっと大人向けの本もそこには集められていた。
ブラッドベリの「塵よりよみがえり」のように、ハロウィーンに材をとったフィクションもあるし、民俗学や宗教の面から取り上げている一般書籍まで揃っている。
ハロウィーンというテーマ一つでも多彩な本があるものだ。
感心しながら私はしばらく夢中で集められた本の背表紙を追い、興味を引かれた本を手にとった。
ふだんは人気すぎていつも人がいっぱい、ソファになどなかなか座れないのだけれど、今日は座り放題、場所も選び放題。
ごろりとソファの上に寝転がりたいくらいだったが、時間帯が時間帯で、さすがにいま、クッションの良いソファに横になったら、いくら不眠症の人間でも寝落ちする危険性が高い。
行儀よく腰掛けて、夢中で本のページを繰っていった。
ハロウィーン Halloween とは何か。
キリスト教の話はさておき、大元の、古代ケルトの話に絞ると。
ハロウィーンとは、簡単にいえば「大晦日」だ。
古代ケルトでは冬の始まりを一年の始まりとする。
その冬のはじまりが11月1日。
つまり古代ケルトの人々にとって、11月1日は、正月の、元日だ。
10月31日の夜は、その始まりの夜だから、大晦日と言えるだろう。
11月1日はサウィン祭(Samhain)といって、秋の収穫に感謝し、祝う祭りだという。
この祭り自体はめでたいものだが、サウィン祭には暗い側面もある。
冬の始まりとなる11月1日、その前夜にあたる 10月31日の夜は、暗闇に異界の境界が薄くなると信じられていた。
この世のものではないものたちが現世へ迷い込んでくる。
現れるのが先祖の霊くらいなら構わないが、それ以外の魔物たちも混ざって現れる、という。
その化け物たちと同じような姿に扮して、人ではなく、彼らの「仲間」だと思わせ、難を逃れるために、人々は人ならざるものの姿に仮装した。
これが、現代まで伝わるハロウィーンの仮装になっていく。
11月1日に秋の収穫の祭りと新年が始まるのに、なぜ10月31日の夜が大事なのか。
古代では、日没をもってその日の終わりとする感覚だったそうだ。
つまり、10月31日は、その日没で終わるのだ。
日が暮れて夜になると、11月1日が始まる。
現代では、新年を迎えるのは日付が変わる午前0時だ。
新年のカウントダウンは、1月1日午前0時に向かって行う。
古代の人々にとっては、午前0時ではなく、日没が日付の切り替わりだったわけだ。
これはクリスマス・イブも同じで、日没をもって日付が変わるので、12月24日の日が沈み、夜になると、12月25日が始まっている。
日が暮れて日付が変わってから日が昇るまでの間、その夜を「イブ」という。
そう考えると、 Eve は前夜と訳されたが、誤訳になるのかもしれない。
クリスマスイブは「クリスマス未明」だし、ハロウィーンは「元日の未明」というべきなのだろう。
古代ケルトでもお正月はめでたい。
11月1日のサウィン祭は賑やかなものだったらしい。
大きな篝火、あるいは焚き火が焚かれ、人々が集う。
秋の収穫を楽しみ、同時に神への感謝を捧げる。
先祖の霊が帰ってくるというのも日本の正月に共通する。
日本では祖霊が帰ってくるのは主に盆だが、じつは正月にやってくる歳神は祖霊だとも言われている。
「盆と正月がいっぺんに来たような」という言い方があるけれど、古代ケルトのサウィン祭はまさに、お盆と正月の合体なのだ。そう思うと俄然、親しみが湧いてくる。
ハロウィーンのみを取り上げた一般書籍はあまりない。
ハロウィーンについて書かれた箇所を探しながら、集められている書籍のページを繰っていた。
ふと目を挙げると、あの男性は貸出カウンターの向こう側で何か作業をしている。
返却された本の整理をしているらしく思えた。
作業の邪魔はしないつもりで、私はまた別の一冊を手に取り、ハロウィーンについて書かれた場所を探す。
次に手に取った本を読み進めていたが、ふと手元がかげったのを感じて顔を上げた。
気づかわしげにわたしをのぞき込んでいる目とあった。
「——大丈夫ですか、顔色が……」
「いえ——大丈夫です、あの……」
どう言えばいいのかと手にしている本に目を落とすと、彼は、ああ、と小さく言った。
「驚きましたか——あまり聞かない話だったでしょう」
「ええ……ハロウィーンは残酷な面もあるって聞いたことはあったんですが」
ヨーロッパの、あまり大っぴらには語られない、暗い伝承ばかりを集めた本だった。
その中のひとつに、ハロウィーンの暗がりが取り上げられていた。
「これ……子どもさんには見せられませんね」
いうと、男性はちょっと困ったように気配だけで笑った。
声はなかった。
ハロウィーンの「お化け」伝承には、こんな側面もあるのだろうか、と暗い気持ちになった。
異界との境が淡くなり、祖霊たちはもちろん、さまざまな「人ならざるもの」がハロウィーンの暗闇の中に現れると信じられていたせいなのか。
神への供物として、生贄が差し出されたともいう。
それも残酷極まりない方法で。
ケルトと対立したローマ帝国の記録には、罪人や戦争捕虜が生贄にされた——つまり殺されたという記述もあるという。
生贄たちを狭い場所に押し込めて火をかけた、という残虐極まりない話もある。
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「まるで悪魔崇拝だ」
よせばいいのにご丁寧に残酷な挿絵まである。気分が悪くなってきて思わず独り言になった。
なかば無意識にこぼれた言葉だったが、
「その通りですよ」
といきなり言われたので、ギョッとして顔を上げた。
あの男性は目が合うと、少し微笑んだ。
「——そういう言われ方をするのです。キリスト教側からはね」
あ、と思った。
そうだ。キリスト教。
異教徒を人とも認めないのはどの宗教にもみられる人の習性だろうが、キリスト教に限らず、一神教はその傾向が激しい。なぜかは知らない。
サウィン祭が万聖節になり、冬至祭りがクリスマスに塗り替えられたように、キリスト教は土着の信仰を取り込みながら、キリスト教ではないものに対しては容赦のない側面を見せる。
異教を抹殺するためならどんな嘘も躊躇わない。
信者さんには申し訳ないが、それがわたしの見るところの「キリスト教」だ。
「サウィン祭に生贄となるものが捧げられたのは確かでしょう。
しかしそれは牛や羊といった家畜で、それを祭の日のご馳走としたのですから、わざわざ残酷に人を殺すとは——しかも何十人も、というのは考えられない」
たしかに——とうなずいた。
「先ほどの本の記述もそうですが、ローマ帝国のように、ケルトに敵対していた勢力が残した記録や伝聞であることは、十分考慮すべきことだと思いますよ」
「そうですね——、ドルイドもずいぶん迫害されたと聞いています」
「よくご存知ですね」
男性はさらに目元をゆるめて笑った。
わたしは首を振った。
「断片的なことしか知りません、知識とはとても言えません」
サウィン祭には、さまざまな意味や性質がある。
単純に一言では語れないだろう。
秋の収穫を祝い、神に感謝する祭であり、新年を祝う意味もある。
夏の終わり、冬の始まりを告げる祭でもある。
冬の訪れは、長い長い夜の季節を意味する。
夜の闇に紛れて祖霊や怪しいものたちが跳梁するという伝承は、その夜の闇への警戒ではなかったか。
サウィン祭では「火」が大きな役割を果たす。
寒さを払うこと、闇を照らすこと。
清める意味もあっただろう。
火は神聖なものであったはずだ。
祭りで焚かれた火は各家に持ち帰られてその家を守ったという。
そんな神聖な火を、どうして残虐な人殺しで汚す必要があっただろうか。
「サウィン祭で残酷な生贄が捧げられたという明確な証拠は出ていません。僕は、非常に悪質なデマゴギーだと断じていいと思っていますよ」
「そうですよね……」
思わず、ほっと息をついた。
男性は、安心させるように微笑んだ。
3.
男性は頷き、椅子を引いてわたしの隣に腰を下ろした。
「ご存知のようですからお話ししますが、ドルイドは古代ケルトでは非常に重要な存在でした。
知識の守護者という人もいますね。
ドルイド司祭、などという言い方もありますが、それだけではありません。自然界のことはもちろんですが、天文学、文学、医学、薬学、法律さえも学んでいました。裁判官の役割も担っていたのです」
「すごいですね」
司祭というだけではなく、なんとなくウィッチドクターのようなイメージもあったのだが、法律まで関わっていたのか。
「〝魔術〟的な分野だけではなく、実社会の利益にも現実的に関わっていたわけですね。
それがなぜ、怪しげな伝承の存在になったかといえば、敵対者たちから不当な攻撃をされたこともありますが、ドルイドは文字を使わなかったからだとも言えるかもしれません」
「文字を使わない?」
「はい、ドルイドは非常に重要な知識を蓄えていましたが——ドルイドになるには修行が必要で、必要な知識の習得に20年かかることもあったといいます」
20年は長い。
「そうなった理由は、もちろん多分野の、多彩な知識が必要だったこともありますが、彼らは文字で知識の伝承をすることはなかったのですね。すべては秘密に秘匿されていたとも言えるでしょうね。
敵対者たちが文字として書き残したことに対して、非常に不利に働いていると思います。
先ほどの、生贄の話も同様です。
悪意のある話ばかりだから、そんな酷いことがあったのかと人は驚きますが、それがドルイドを貶めるための悪口だとしたらどうでしょう? 証拠が見つからないのは当然です」
「要するに、その悪口は——『嘘』だから」
男性は頷き、椅子に座り直した。すっと姿勢を正す。
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そういえば男性はずっと立ったまま私に応対してくれ、立ったまま作業を続けていた。
そろそろお疲れだろうと思ったけれど、それでも椅子を引き寄せて腰を下ろしたときのしぐさには、疲れは見えなかった。
見た感じは60歳以上の、いわゆるシルバー世代なのだけど、身のこなしが若々しい印象だった。姿勢もいい。
それも無理に姿勢を正しているわけではなくて、骨格を含めた身体のバランスの良さ、筋肉含めてそのしなやかさがあって、ごく自然だった。
いい感じだなあ、こんなふうに私も年齢を重ねて行けたらいいな——という考えが、チラリと脳内をよぎる。
それにしても——と、男性はふと、わたしの顔をのぞき込むようにしながらふと笑った。
「ハロウィーンがこれほど人気になるのは意外でしたねえ」
「そうですねえ」
わたしも思わず頷いた。
「わたしが子どもの頃はハロウィーンなんて全然——、中学生でブラッドベリを読み始めたんですけど、それでやっと背景知識として知ったくらいで」
「ああ——ブラッドベリね」
男性はちょっと笑った。子どものいたずらを思い出した、みたいな笑みだった。
「『一族』のシリーズですね」
「はい。『集会』が——最初は何の話か全然わからなかったですけど、雰囲気が好きで」
「あの作品からハロウィーンを知っていったなら、Trick or Treat の子ども向けのお祭りのイメージはあまりなかったのかな?」
「そうですね。なぜあのシリーズが『お化け』なのか、という方が先なので、子どもたちが仮装してお菓子をもらうっていう、明るいお祭りの雰囲気の方がむしろ違和感がありましたね」
「でも、おもてなしかイタズラか、ということ自体は、古代のお祭りの系統を案外純粋に引いているんですよね。それが面白い」
「古い祭りの系統?」
「サウィン祭には収穫祭の側面があって、神に収穫の感謝を捧げます。それ以外にも、祖霊たちにもお供え物をする習慣がありました。祖霊は自分たちの先祖ですから歓迎します。祭壇を作り、食べ物を捧げ、火をかかげます」
「お盆みたい」
ちょっと笑うと、そうなんです、と男性は真顔で頷いた。
「日本のかたの方が、むしろイメージしやすいでしょう。お盆があって先祖の霊を迎えるという習慣はまだありますからね。
ただ違うのは、祖霊以外の悪霊やあまりタチの良くない妖精など——いわゆるお化けね、そういう連中が紛れてくること。
彼らのためにも、やはり供物のようなものはお供えされたんですよ」
「うーん、悪さはしないけどお盆でも施餓鬼供養がありますよね。それに近いかな」
先祖を供養する精霊棚のほか、お寺には施餓鬼供養壇も設けられる(全てのお寺というわけではないかもしれないが)。
餓鬼たちは、自らの姿の醜さを恥じて暗がりに身を潜め、明るいところには出てこないと言われる。
餓鬼という名前の通り、空腹と喉の渇きに苦しむ彼らのためにも、供養はされるのだった。
「聞けば聞くほど、ハロウィーンて、日本のお盆や正月の合体って気がします」
「文化が違いますから、そう単純にはいえませんが」
と、これはさすがにたしなめるような口調で言われ、わたしも、そうですねと首をすくめた。
異文化の、安易な「理解」はかえって誤解を深める。
共通項はあるかもしれないが、それだけを押し広げて「わかった気になる」のは危険だ。
それはわかる。
男性はふと笑って、
「大きな括りでは似ている——ところがある、と言えますね。ドルイドも自然の力を崇拝していたし、森や樹木、自然界にあるものを神聖なものとしていたので、日本の文化と、やはり似ているところはあります」
「日本でも、そんな信仰は、それこそ絶滅危惧種になっている気もしますけどね」
つい、日頃感じている鬱憤が皮肉になって、そんなことを言ってしまった。
男性はまた、なだめるように微笑んだ。
「——日本のかたも、なかなかご苦労が多いですね」
え? と思った。
何かが引っかかった。
その引っ掛かりを感じるのは二度目か、三度目。
けれども、その引っかかりに注意を向けることを許さないように、男性は、さて、と身軽に立ち上がった。
「そろそろ夜明けです。——どうなさいますか、僕はそろそろ仮眠をとりに行きますが、——まだお読みになっていますか。あるいは貸し出しか……」
「いえあの——、これで失礼します」
反射的に時計を見て、さすがに慌てた。
本当だ。
フィッツジェラルドが魂の闇に例えた午前3時など、とっくに過ぎている。
まだあたりは暗いが、空が白み始めるのももう間もなくだろう。
「そうですか、では出口までご案内を」
きたときは正面の自動ドアをこじ開けてしまったが、帰りはちゃんと、仄暗い通用口へと案内された。
図書館の裏手にある、半地下にもなるような位置どりの小さなドア。
そこを開けると地上へ出るための小さな階段がある。
「それでは——、あの、ありがとうございました」
階段に足をかけたところで背後を振り返る。
「いいえ。どうぞお気をつけて」
男性はまた優しく頬笑んだが——ドアの上にある常夜灯の、明るくはない光のせいか、今までとは違い、陰影が濃く現れ、少し疲れているように見えた。
会釈して階段を登って行こうとしたとき、クスッと笑う声が聞こえた。
「あなたはシー Sidhe ではありますまいね」
「え?」
——イェイツの?
それは明らかにひとりごとの声だったのに、そんなふうに思って、つい反応してしまった。
目が合うと、男性はまた小さく笑って、
「いえ、なんでも——どうぞお気をつけて」
「は、はい……ありがとうございま」
「した」を言ったときには、通用口のドアはもう閉まっていた。
急いで地上に出て、周囲を見回す。
あたりはまだ暗いが、それでも、「真っ暗」ではなく、ほんのりと、その黒さが淡く薄められている気がした。
夜明けが迫っているのだ。
実際、図書館前の通りに車を停めたときには、周囲は完全に無人だったのに、今は、それでも時折、車が通っていく。
信号機も、赤の点滅ではなく、通常の——青、黄色、赤を繰り返す信号に戻っていた。
夜が明ける。
明けてしまう。
急いで車に乗り込んで、エンジンをかける。
微かに車が振動したとき、獣が体についた露を払おうと身震いするさまが思い出された。
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ヘッドライトをつけた車とすれ違いながら、夜が終わっていく街を走り抜ける。
結局、完全徹夜だ。
それなのに——それだからか——まったく眠気を感じなかった。
今ごろ、心臓がバクバクしてきた。
——あの人は誰だったのか。
図書館で夜勤など聞いたことがない。
今は警備も自動になっていて、窓に触っただけで警報が鳴り、警備会社に知らせが飛んで、大騒ぎになるはずだ。
それに——それに。
(——日本のかたも、なかなかご苦労が多いですね)
あの人はそう言った。
確かにそう言った。
まるで自分は日本人ではないように。
日本人離れした、彫りの深い顔だなと思ったことは覚えているが、今、思い出そうとしても、具体的にその顔を思い出せない。
黒っぽい霞が、記憶にベールのようにかかっている。
そのことに気づいて身震いしたとき、急にまぶたに光を感じた。
目を上げた。
空が、白かった。
夜の暗がりは、最初は気づかぬほどに淡く淡く薄められているが、ある瞬間を境に一気に光によって打ち破られる。
その瞬間が訪れていた。
夜が終わる。
日が昇る。
秋が終わり、冬が始まる。
最初の、冬の日の光だった。
〈了〉
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