【連作短編】|囁聞霧江《ささやききりえ》は枯野を歩く ~故郷・前編~
あらすじ
【聴き屋】囁聞霧江は他人の話を聞くだけ。他人の話を聞いて聞いて、最後に囁く。霧江に話を聞いてもらった人々は霧江に囁かれて、あるべき素形へ、あるべき場所へ旅に出る。
霧江に話を聞いてもらいにやってきた岩藤良夫は、故郷に帰りたくないと言う……。
『旅に病んで夢は枯野をかけ回る』松尾芭蕉
故郷は遠くにありて思うもの。故郷と書いて田舎と読む。故郷とは多くの人が帰りたいと思う場所のはず。
岩藤良夫の故郷には何でもあって何もない地方都市の郊外にある。自分の町からでなくとも生活はできる、贅沢やファッションに無関心なら。そんな地元に帰ることはないと思っていた。
電車を在来線に乗り継ぎ無人駅に降りた。とうの昔に管理を見放された灰色の駅、公衆トイレからの悪臭が僅かに漂っている。
実家まで徒歩十五分、昔を思い出しながら歩いて帰ることにした。秋の紅葉で色づいているのはほとんどが杉でこれといった観光資源もなく住民のほとんどが農業か畜産に従事しているが、それさえも後継者不足で風前の灯。簡単に言うと《田舎》だ。
いつ舗装されたかわからないアスファルトと革靴は相性が悪い。先ほどまでの夕焼けがグラデーションで夜になっていく。少し足を速める。夕飯の時間が近い。
「たまには帰っておいで。みんなでご飯でも食べんね?」母からの連絡はいつも突然だ。
田舎が嫌いだった。贅沢をしなければ、ファッションに気を使わなければ十分生きていける。ただ生きているだけの人間になってしまうのが嫌だった。働いて働いて、生きるために働いて、働くために生きて、最後は死んでしまう。そんな一生をこんな田舎で過ごすのが嫌だった。RPGの村人Aになるのは嫌だった。抜け出したかった。都会に出れば自然と物語の主人公になれると思っていた。しかし、毎日毎日、無意味に頭を下げ続け、上司の顔色を伺い、同僚にすら気を使う。いつしか何とか人生が平穏であるようにと、ただそれだけを祈るような、当たり障りのない人間になっていた。最初から主人公の素質がなかった。村人Aが町人Aになったに過ぎない。いや、町人Gくらいかもしれない。そんな灰色の毎日の中で僅かに差し込んだ光が母からの連絡だった。これを機に実家に帰省し仕事を見つけるのも悪くない。うまくいけば親戚や友人のコネで役場の職員として中途採用してもらえるかもしれない。勝手な妄想にいつしか鼓動は早くなり期待に胸躍っていた。しかし家族に気取られるのは恥ずかしいので「スケジュール見て、行けたらいくよ」とそっけない演技で答えておいた。スケジュール帳など買ったかすら定かではないが、数年ぶりの家族団欒の予定は決まっていた。
さびれた地元の駅を見て少し不安になっていた。俺がこの街を出た時にはまだ二人の駅員がいたが今は無人駅になり果てている。コネで仕事にありつけるかもという期待は甘かったかもしれない。実家に近づくにつれ家屋が増えてきた……が人の気配が感じられない。誰彼構わず吠えまくる田村さんの所の雑種犬すら姿がなく古びた犬小屋だけが夕暮れに佇んでいる。豆腐の鈴木屋にも活気がない。豆腐屋は朝が早いから夕方には閉店していてもおかしくはないだろう。地元にいたころは豆腐屋の営業時間など気にも留めなかった。錆びた看板に目をやるとまるでもう何十年も営業していないようだ。たしか、こういう地元商店を復活させる地方創生事業があったような気がする。明日、鈴木屋の夫婦にあいさつに来て雰囲気を探っててみよう。
家の最も近所にある杉下クリーニングはまごうことなき廃墟だった。割れたガラスの穴から見えた店内には草が生えているのが確認できた。もはや管理者の所在すらわからないだろう。今、地方で問題になっている空き家というやつだ。こういうう空き家の再利用方法を市に提案すれば地域おこしなんちゃら隊の隊員に採用してくれないだろうか。淡い淡い期待、自分でもそんな甘い事なんてありえないとわかっている淡雪よりも淡い期待とも言えない妄想を描きながら、岩藤良夫は実家にたどり着いた。
見慣れたインターホンのボタンを押したが固い感触があっただけで音が鳴った様子はない。しかしなぜ、長い間離れていたとはいえ他人でもあるまいし、なぜ実家のインターホンを押したのだろうか。岩藤良夫は僅かな違和感を胸に玄関の扉を引いた。古びた扉はやや抵抗した後、ギいいと呻った。
少しかび臭いが……懐かしい我が家の匂い、玄関を十歩も歩かないうちに居間にたどり着くだろう、襖の間から光と家族の声が漏れている。
「あっははは」母の声。
「兄ちゃん帰って来たとやない?」弟の声。
「ぉお」父の声。
「早く。あがらんね」母が呼ぶ。
靴を脱ぎ居間へ向かう。軋む廊下、埃っぽい。
襖を開けると食卓の真ん中には鍋が火にかけられている。蓋がかぶせられているので中身は分からない。ぐっぐっぐと苦しそうに揺れている。小さな卓袱台には父、母、弟が守護獣のごとく配置されていて一つが空席だった。
「あんた帰ってくるの遅いから、もう鍋食べ終わって雑炊にしちゃったわ」母が半笑いで喋り続けている。
「あんた結婚はせんの?早う孫の顔見せんとお母さん死んでしまうよ」
母の声にはノイズが混ざっている。ノイズではなく羽音だと気が付いた。夥しい羽虫の飛ぶ音が家族の声に聞こえる。死体に群がる羽虫の羽音。
「みいんなも、あんたも、もう死んでいるのよ」母は笑った。
明かりは消え、殆ど朽ちた床の上に母は胡坐をかいていた。
誰もいない部屋。埃まみれの四角い卓袱台の四方を家族の面影のように、使い古された座布団が置かれている。玄関に戻り、脱いだ靴を履きなおして他の部屋を物色した。夫婦の寝室と思われる部屋には布団が二つ並べられていた。弟の部屋には小さなブラウン管テレビがあり、時代遅れのテレビゲームが繋がれたままだった。そして、それぞれの部屋には一体ずつ人間の朽ち果てた遺体が横たわっていた。
ここまでが私、囁聞霧江の妄想だ。
後編につづく……
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