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頭の中のひとりごとが止まらない。止まらないことを意識するのも止まらない。そういう日がある。そういう時間を頭の中で「ぴろぴろ」と呼んでいて、つまりわたしは最近、毎日ぴろぴろしているのである。ぴろぴろ。

こういう文章を書くと自分を不安に思う。おいどうした、と思う。ぴろぴろって何、これからどうなっていくんだろう、と思う。実態は、毎日ふつうに仕事して、ふつうにご飯を食べて、ふつうに子どもの歯を磨いて、普通に本読んだりゲームしたりしてる。そんで寝る。寝不足ではない。新しい枕は頭にジャストフィットしている。普通とちょっとした異常が自分の中に混在しているのを意識する。星野源が不倫していたら困る。困ってしまう。ドラえもんはどうなる。

3月に新しい猫が来て、朝起きたときにはいつも、わたしの腕か足のとなりにぴったりと背中を沿わせている。手足が横に自然と投げ出されていて、本物を見たことがないけどきっとこれはリアス式海岸と似ているだろうと思う。リアス式海岸を想像するとき、それは中学の社会の資料集のあるページの角っこにある写真で、画質はあらく、海は濃い紺色をしていた。ずいぶん視覚に頼って生きている。高校ではほぼ毎朝英単テストがあって、それはいつも寝る前に布団に入ってから翌日のテスト範囲のページをめくって何度か読み、起きてすぐそのページを開いてまた読むことで記憶していた。どのページのどの部分にあるかをまるっと画像で覚える。そして眠っている自分に暗記をさせるのだ。英単語にしろ日本史の誰々の名前にしろ、ものとものの関連性ではなく、そのもの自体を覚えるときには昼の自分をなるべく出動させず、夜中の自分を使う。そういう感覚があった。が、日本史はあまり覚えられなかった。単純に、歴史に興味がなく、あんまり楽しくなかったし、楽しもうとするには情報が少なくて、たとえばどうやってこの戦いが起きたのかとか、シンプルな流れだけだと味気なくて史実の人をまるでキャラクターのように考えてしまい事実に妄想がまじってしまう。じゃあ英単語の暗記は楽しいのかというとそういうつもりもなかったけれど、アルファベットが並んでいてそれに意味があるという点はなんだか面白い気がする。他人が勝手に作って使ってる言葉をあとから勝手に覚えるというのもおかしくてよい。結果的に英語はよくできた。日本史は赤点をとったし、センター試験のできもいまいちだった。今でも二度目のセンター試験のことを思い出せる。一度目は小倉の代ゼミで、二度目は北九州大学で受けた。代ゼミのときはリスニングの時間にビルの近くを選挙カーが走り、お前にだけは絶対投票しないぞと誓ったけれど誰だったか忘れた。北九大のときは日本史で答案用紙に住所を書き忘れ、集められたあとにはっと気づいて慌てて試験官のもとに走り、おなさけで住所を書かせてもらった。

思うことについて思う、その自分をさらに思う。どんどん自分が重なっていく。忘れてしまった言葉があって、でも感覚はあって、言葉にはできませんがそのことで悩んでいます、といわれたら誰しも困ってしまうんじゃなかろうか。まさに今の自分がそうで、あれはなんだったけ、忘れたのか知らないのか、でもとにかくそれについて悩んでます、という自分がいる。どうしちゃったんだい。と書いてみる。書いてみるだけで少し、遠くに蹴り飛ばせる。何に悩んでるかわかりません、というのとは違う。ある。そこに明確にある。感覚的に明確だが、言語的には不明瞭。でもそこにある。あるから悩んでいる。大丈夫そ?

朝起きて階段をおりるとき、正面に見える庭の緑が濃いと嬉しい。その白い窓枠の中に蝶か蛾か、鳥がいたらもっと嬉しい。ぼうぼうと伸びた雑草、雑草で見えにくいビオトープという名の雨水が入ったタライ、そして無数の生物たち。ミジンコ、メダカ、ハナアブ、ヤゴ、シマドジョウ、カニ。アシナガバチが水滴にくちをつけるのが見える。実際は今見ているわけではないけれど。柿の木が着実な成長を見せ、葉だけは既に立派な柿になっている。

昨日、楽天で買った折りたたみの日傘が届いていたが、箱の重さからこれは困ったぞと思っていた。すごく重い。開けてみたら、WEBサイトに書いてあったとおり、大きめで骨が多い。折れにくい傘なのだそう。ボタンを押したら、トトロの黒い傘みたいにヴァ!と開く。立派だが重い。もう一度ボタンを押したら、のびていた骨組みがまた折れて縮まるが、布地はしわしわとしていてたたみづらく、イメージしていたような、くるりと紐を一周させてぱちんととめるような、そんな簡単なもんじゃなかったので一旦、段ボールにほおった。適当な人間だと自称しているけれど、折りたたみ傘がカバーに入りにくいことが本当に許せない。郵便受けに入っていた薄い段ボールに挟まれていたのは注文していたApple Watchのバンドで、袋から出して装着すると想定外にゴムが短く、手首をぎゅっと締め付けてくる。やすかったし捨てる他なさそう。ゴミを買ってしまった。

おたまじゃくしが順調に成長している。カエルはいつからカエルというのかはっきりとは言い難いが、手足が生えて上陸し、しっぽが消え始めるあたりから背中がカエルらしくなってきていて、そうなるともうカエルと言ってよいだろう。カエルはカエルになって数日間は何も食べる様子がなかったけれど、ある日いきなりアブラムシを食べるようになった。食べるシーンは見ていないけれど、明らかにアブラムシが減っているし、フンをしているからきっと食べているだろう。今日は帰宅したら庭でアブラムシのなる植物をアブラムシがついたまま新たに切り取り、水槽に入れてやらねばならない。子どもはカエルのことはもうあまり思い出さない様子で、やはり生き物が家にきたらわたしが世話をするものなのだと思った。こどもは毎日、やれ柴犬がかいたい、オールドイングリッシュシープドッグがかいたいという。わかるなぁと思う。わたしもラブラドールを迎えたい。まずは猫のトイレ掃除ができるようになってからね、というとすぐにテンションを下げる。猫のうんちなんてスコップで拾うときにはすでに硬いが、犬のうんちは外でしたばっかりのを拾うんだからもっと気合が必要なのだ、と説明しようとしたが、あのビニール越しのうんちの感触が指先に戻ってきて、言葉が続かなかった。犬のこと大好きだけど、ビニール越しのうんちの、あたたかく柔らかく、崩れやすかった記憶はあんまり好きじゃない。拾ったあとの、くちをしばられたビニール袋はどうしていたんだったか。実家の車の後ろ、キッチンの勝手口の横、日光でうっすら白くなった青いゴミ箱に入れていたような。排泄物は体から遠ざけたくなる。子どもを産んでしばらくは、うんちをしたかどうか子どもの両脇に手を入れて抱き上げ、おむつ周辺に鼻を近づけてにおって確認していた気がするが、おむつがとれてからはあの行為をもうできる気がしない。先日久しぶりに小さい子と過ごしたとき、パパとママが自然とその動きをやっていて、ああもうこれはできないな、と思った。あのときだからできたのだ。わたしはもう、子どもの排泄物を見ることも、におうこともおそらくないだろう。

悲しんでいる人がいたら、なるべく優しくしたい。本当にできる限り、なるべく。心からそう思っている、とソファで隣に座る夫に言ったら、信じてくれた。ソファはIKEAで買った青緑色のもので、猫が爪をといで引っかかった糸が抜けてぴろぴろしている。

ぴろぴろ。




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