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映画「エゴイスト」

自分が好きでしていることに、愛なんて言葉、使えるわけがない。

高山真『エゴイスト』

東京で雑誌の編集者として働く浩輔とパーソナルトレーナーの龍太の出会いとそこから、家族、愛とは?エゴとは?、という内容の物語。

映画になることは知っていて、そのあと原作が文庫化されるニュースを見てたしかすぐに買いに行ったんだった。そしてすぐに読んで、何度も読んで、その度にこのページのこの言葉に息が止まってしまう。

相手があって行うこと全てにこの言葉は当てはまる。この言葉に出会ってから頭のどこかでずっと考えてしまう、もちろん答えは出ていない。
ここで立ち止まらず、受け入れられて当然と思うことはきっと悪ではない。そうだったらとってもクリアだ。ということは、根元にあるのは自己肯定感とかそういう類のものってこと?いや、でもそれだけでは到底言い表せていない。
思いや解釈したものを言葉に変換する翻訳機があったらどういう言葉が出力されるのだろう、形になればこの魚の小骨が喉につかえている感覚から解放されるのに。もどかしい。

「あなたがどう思うかはしらない、でも受け取った私たちが愛だと思っているからそれでいいじゃない」ということを龍太の母は言った。そう・・・それでもきっとこちらからは見えない相手に届いている側がどうなのか気になってしまう。相手のことを思っている、その人のためになる最善はこれと思ってやっている、でも相手がどう思っているかわからない、わからないから想像するしかない、そうなるとクリアでハッピーなものだけではない想像もしてしまって、結局割り切ることは出来ない。

出会っちゃったから、しょうがないだろう。出会っちゃって、お互いまだ大事に思ってるんだから、しょうがないだろう。お互いまだ大事に思ってて、しょうがないから、やっていくしかないだろう。

これは昔、浩輔の父が浩輔の母に言った言葉だ。浩輔の母は彼が14歳の時に病死している。その母は闘病中これ以上迷惑をかけられないと父との別れを望んだ。その時に言った言葉。
父は、豪華ではないけど心づくしの手作りの夕食を口に運びながら、きっと何か事情を抱えている目の前の息子に顔を向けることもなく、淡々とでも長年その「しょうがない」と共生したからこそたどり着ける温度で、この時初めて浩輔にこの言葉を伝えていた。
父と母の望むすべてを自分は叶えることが出来ないと自ら背を向けていた浩輔にこの言葉がどれだけ染みわたったか。血が繋がっているのに経験も価値観も何もかも違うと思っていた父親から、このどうしようもなく正しい言葉を聞けて、浩輔はきっとこれまで感じ取れなかった繋がりを感じて救われた思いだったに違いない。

その状況が「しようがない」、そう思ってしまう人との出会いが「しようがない」、そうやってやっていくしか「しようがない」。そう思う存在がたとえ消えてしまったとしても、それを含めてやっていくしか「しようがない」。
考えても考えても答えにたどり着けない、「解なし」が正答になる数学の問題のように。こういう「『解なし』案件」を手放せず「しようがない」と共生していくことが生きていくことなんだろう。
どうすることが正しいなんてことはない。こうじゃなければ愛じゃない、なんてことはない。オセロの駒(っていうのかな?)のようにきれいに白と黒が塗り分けられている訳ではないんだ。

付き合っている彼女が喜んでくれることが自分の生きている意味だと言ってのけた知人がいたことをふと思い出した。自分の行動が彼女の喜びに繋がると務めを果たした気持ちになる、彼女から自分へ向かう思いや何かを求める気持ちなぞさらさらないし、自分の快楽みたいなものは全くもってどうでもいい、というようなことを言っていた(へー、と当時は特段興味も持たず流してしまったけれど、今なら何でそう思うのかいつからそうなのかずっとそうなのか、夜通し深堀して聞いてみたい)。
ホストの帝王ROLAND氏は最近のテレビで「男に生まれた一番のしあわせは惚れた女に振り回されてる瞬間だ」と言っていた。
生き物の本質として「慈しむ存在に尽くし施すことが務め」という要素が存在している、ということなのだろうと思う。それを愛だとは言わずとも、そうすることで満たされる器を生まれながらに持っているのだろう。
大切に思う存在とその大切に思う存在が大切にしているもの、そこへ出来うる限りのものを注ぐ。注いでいるけどそれで満たされていく。出会ってしまったしかたなさと本質として持ち合わせているものをどう表すか、相手の状況に合わせて、自分の強みを効果的に使って。

映画では浩輔を鈴木亮平さんが、龍太を宮沢氷魚さんが演じている。二人のラブシーンはとても美しかった。お互いがお互いを求めていることが痛い位伝わってくる。
この場面を語る時にわざわざ「性別を超越した・・・」という言葉を使う意味ってなんなんだろう。愛し合う二人がその思いをぶつけあうラブシーン、それだけで何の過不足もない。望んで性別を決められる訳でなくたまたま二分の一の確率でどちらかが身体に割り振られて生まれてくるって言うだけの話で、誰が誰を好きになろうとその人の勝手なんだから(これは映画『his』の中の台詞)。
映画本編はドキュメンタリーのようにそこにその世界が存在していたけど、撮影時のオフショットを見ると亮平さんも氷魚くんもとっても大変そうだった。氷魚くんはあるシーンのOKが出た瞬間泣いていた。そこまでして彼らが伝えようとしているものを、私は感じ取れているのか。考えも知識もまだまだだ、それでも、このような内容の作品に悩んで悩んでもっともっと表現しようと取り組む人を応援できるって誇らしいという思いは、この作品を通してさらに強くなった。これは確実に言えることだ。

生きていくって答えの出ないことを諦めて受け止めて持ち物の一つにして進んでいくことなのかもなぁ。長く生きている人の言葉が響くのは、経験ももちろんだけど、この、諦めて受け止めるを繰り返している心の土台の広さや柔軟さ、のようなところによるのかなぁ。
私も私の大切な人たちも全く関わりのない人たちもみんな、そうやって毎日を繰り返しているのか。そう思うとたまたまタリーズで隣の席になったおじさまも反対の隣の若いお嬢さんも、みんな愛おしくなる。しようがないねと眉を下げ、慈しむ存在に出来るかぎりのものを注いで、これでいいのかとぶつぶつ考えながら、それでもみんな、そうやってやっていくんだ。
浩輔、みんなそうやってやっていくんだよ。

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