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映画「ムーンライト・シャドウ」

ひとつのキャラバンが終わり、また次がはじまる。


原作の最後、立ち止まるしかなかったさつきが自分に言い聞かせるように訥々と綴られる言葉。そう、この物語ははじまりとおわりの物語、誰もがその中に取り込まれている止めることのできない時間の流れの物語だ。

これまで決して多くないページに記された文字をなぞり頭の中で想像を広げてきたものが、原作の発表から30年以上の時間を経て目に見える映像と音で形作られる。2つの作品に共に流れる共通のものがあってそれでもその2つは違ったもの。原作になかったものが加えられ、その逆もまた。そのことはプラスにもマイナスにも作用することはなくて、全くフラットに、それはそれ、これはこれ、という気持ちでスクリーンと向かい合う。


背景となる音は抑えられ、登場人物の発する音が全部届く。息を吸う音、ごくりと喉を鳴らす音、言葉が音になる前の空気が喉を通る音。
月影現象(原作では「七夕現象」)で会いたい人について等、柊、ゆみこが話す場面では、人の声は音声として聞こえてくるものと響きとして聞こえてくるもので形成されているんだと気付かされる。その後それがまるごと欠けてしまうなんて想像もできない、生の温度を持つ音に満たされる場面だった(この場面の等の声は、耳と空間にしっくりとしっとりと馴染む音とどこまでもやさしくほんの少しくすぐったくなる低い響きで出来ていた)。


定まらない思い、自分を守るために閉ざす心、何をもってしても救うことのできない絶望、生きているとそういう望んで落ちたのではない穴から出てこられない場面に直面することがある。そういう時拠りどころとなる、拠り所にしてもいいと思えるのは、この物語で「月影現象」が起こるとされる大きな川、もっと広い範囲のいつも変わらずそこにある自然なのかもしれない。
変わらず流れる川、留まらず流れていくものであり、あちらとこちらを分かつものであり、穏やかに何も語らずそれでも人間では到底かなわない荒々しさ、人間の想像もつかないことがそこで起きてもおかしくないと思わせるちからを持っている。
ずっと静かに変わらず流れ続ける川の流れやくりかえし打ち寄せる波は、留まり続けようと頑なになる心にも知らず知らずに沁みこみ流れを作っていく。自分が今ある「こちら」とあの人がいってしまった「あちら」、手を伸ばせば届くようでもうそれが叶うことのないその分断を、川のこちらとあちらや遠くで静かに光る月に重ね混乱を整頓しようとする。
人のそれなど比べ物にならない長い長い時間そこにあり続ける自然。考えられたもの、造ったものはもたない、抗うことのできない自然の営み、途絶えることのない継続は、どうしようもなく絡まってしまった心をほんの少しずつでも確実にほどき、どこに行ってしまったかわからなくなってしまった心の糸を静かに掌に戻す。

これまで私は、そうやって喪失の苦悩から解き放たれることや日常を取り戻していくことは、なんていったらいいのか適当な言葉を当てはめられないのだけれど、いなくなってしまった存在を、いなくなってしまった事実を軽んじているように感じ、自分だけが進んでいくことに抗っていた。そうあるべきではないと思っていた。その人がもういない現実を肯定することは、その人が生きてきた時間を否定することになってしまうのではないかと怯えていた。
でも、そうではないんだ。
自分の生が続いていく中で様々な喪失はくりかえされる。なかったことになんてならず、それも含めて自分の時間は止まることなく流れていく。感情が麻痺しても、食べて寝て私の生は循環していく、くりかえす毎日が私を生かす。生きているから毎日をくりかえすのではなく、くりかえされる毎日に喪失を抱えたまま生かされる。喪失はいつもそばにあるものとなり、いつしか生きている時よりずっとそばにあると感じられるようになっていく。


満月の夜の前、熱を出したさつきにうららが言ったこと。

風邪はね。今がいちばんつらいんだよ。死ぬよりつらいかもね。でも、これ以上のつらさは多分ないんだよ。その人の限界は変わらないからよ。またくりかえし風邪ひいて、今と同じことがおそってくることはあるかもしんないけど、本人さえしっかりしてれば生涯ね、ない。そういう、しくみだから。
そう思うと、こういうのがまたあるのかっていやんなっちゃうっていう見方もあるけど、こんなもんかっていうのもあってつらくなくなんない?」

(これは原作より引用。映画のうららの台詞は少し違っていた。)
風邪のことだけを言っているのではきっとない。
ほら、人に言われると拒絶したくなる、こんなことがくりかえされるなんてごめんだ。こんなもんかとつらさに慣れていくなんてごめんだ。
それでも断ったってそっぽを向いたって続いていく。泣いたって叫んだって、流れていく、それには抗えない。そういうことを腑に落とすため河原に降り、風をあび川の流れを眺めるのだろう。
あぁ、それでいいんだ。私は一体何に許されたのだろう、これまで消えなかった何かが涙に溶けて流れていく。



公開前から手にすることを楽しみにしていたパンフレットは、B6判よりほんの一回り大きく125ページもあるハードカバーの本だった。花紺青のような深く暗い青に星空のような細かいラメが控えめに光っている。
写真のほかに、イントロダクション、物語、エッセイ、インタビュー。それだけでもう十分に充実したものなのに、加えて谷川俊太郎さんの書き下ろしの詩、短歌、シナリオの決定稿も掲載されている。
書き下ろしの詩はインスタグラムにポストされている。何度も何度も読み返す。

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パンフレットは、作品を愛する人が好きなようにその愛を形にしていいよと言われて作ったもののようだった。
この作品に関してまたも嬉しい出会いをしてしまった。原作と隣あわせで本棚の一番目に入る位置に大切に仕舞う。



毎日忙しなくすぎていき、淀みなく回っていっているようでも、隅の方にあるいつかの「風邪」。もうそれが原因で熱が出ることはないし表面は乾いてちょっとやそっと触れてもどうってことないけれど、川や海、星空の下でそのとてつもなさに身をさらしに行きたくなるタイミングは今もやってくる。
次はこの作品のパンフレットという名のファンブックを持っていこう。夜と朝の間の時間に、川の流れを眺めにいこう。これからの人生そういう時間を過ごす選択が出来ると思えることは光だ。


平日の夜、同じ場所でも休日の昼間とは全然ちがう雰囲気に包まれた映画館に入り、現実とそうでない世界を行き来し満たされて外に出る。
暑くも寒くもない夜の空気、地下鉄の駅まで車の入ってこない道が続く。広い歩道に埋め込まれたちいさなたくさんの緑色の光が順番に流れるように付いては消える、まるで川の流れの中を歩いているようだった。わざと少しゆっくり歩く、駅に着くまで。
さつきと柊が朝の光の中笑って別れたその場に居合わせたような気持ちで、後ろを振り返らず、少しゆっくり歩く。


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